◇元首相遊説中斃凶弾
◇端午偶成
◇尋鶴見緑地懐花博
◇宮崎吟行会偶成
◇賀全国漢詩祭典宮崎
◇高槻市菊花展
◇編隊飛行
◇万博公園懐古
◇古都燈花会
◇芥川鯉幟祭
◇賀茂曲水宴
◇松尾大社節分祭
◇茨木花火大会
◇嵐山花灯路
◇天神祭船渡御
◇伊勢神宮式年遷宮
◇七夕
安倍元首相は、長期の在任期間中に、雇用の修復といった喫緊の課題の解決を始め、平和安全法制など戦後先送りとなってきた多くの懸案事項を正常化しました。また、対外的には、各国の首脳と強い信頼関係を築きました。その成果の一つが、日・米・豪・印の戦略的同盟(Quad)による中国包囲網の構築です。日本のマスコミと野党は、モリカケ問題をでっちあげるなどして、火のないところに煙を立てるのに躍起になっていましたが、各国首脳は元首相をきわめて高く評価しています。以下の追悼文がその一例です。
トランプ前米大統領「世界にとって最悪なニュースだ。日本の元首相安倍晋三が死亡した。彼は暗殺された。安倍晋三がいかに偉大な人物であり、リーダーであったかを知る人は少ないが、歴史がそれを教えてくれるだろう。彼は他の誰とも違うリーダーであったが、何よりも壮大な国日本を愛し、大切にする人であった。彼のような人はもう二度と現れないだろう。」
プーチン露大統領「両国の関係の発展に尽くした卓越した政治家の命が奪われた。私は彼の素晴らしい性格とプロとしての仕事の質が発揮されるのを目にしてきた。この素晴らしい人物の記憶は、彼を知るすべての人々の心に永遠に残るだろう。」
これ以外にも、海外の首脳から多くの追悼文が寄せられています。日本の政界にぽっかり穴があいてしまいましたが、今後、元首相のように、しっかりした国家観をもってこの国をリードしてくれる政治家が現れるのでしょうか。
巨星殞落不堪悲 巨星の殞落 悲しみに堪えず
四界衆民聞尚疑 四界の衆民 聞きて尚お疑う
竹帛勲功君識否 竹帛の勲功 君 識るや否や
銷亡柱石恨無涯 柱石を銷亡し 恨み限り無し
(註) 竹帛=書物、特に歴史の書物
令和四年七月 光琇
意訳 (7月8日、奈良市で)巨星がテロリストの銃弾に倒れ、悲しみに堪えない。国内外の多くの人々は、この訃報を聞いて耳を疑った。歴史に残るような彼のすばらしい業績を人々は知っているのだろうか。国の柱を失ったことは残念でならない。
屈原は、紀元前4から3世紀にかけての戦国時代の楚の詩人・政治家です。自作の詩を中心にまとめた詩文集である楚辞の編纂者として有名です。楚王に信任されていましたが、この国でよくあるように、妬みによる讒言により江南の地に流され、絶望のあまり汨羅(べきら)江に身を投じました。
屈原が入水自殺したのは5月5日で、楚の人たちは屈原の死を悲しんで、魚が体をついばまないように、もち米を蒸した粽(ちまき)を川に投げて供養しました。これが端午の節句に粽を食べる習慣の始まりだといわれています。
鯉のぼりは日本の風習です。江戸時代に武家で始まった端午の節句に、男児の健やかな成長を願って、元気のいい鯉をのぼりにしたようです。
端陽佳節訪郊村 端陽の佳節 郊村を訪い
佇立江頭想屈原 江頭に佇立して 屈原を想う
投水使民揮涕涙 投水は 民をして涕涙を揮わしむ
今唯鯉幟碧天翻 今は唯 鯉幟 碧天に翻るのみ
(註一) 屈原=紀元前の楚の詩人、追放されて五月五日
に汨羅江に身を投じた
(註二) 鯉幟=鯉のぼり
令和三年四月 光琇
意訳 端午の節句、夕方晴れてきたので郊外の村を訪れ、川の堤にたたずむと、5月5日に汨羅江に投身した屈原の事が思い浮かんだ。その出来事は楚の民を深く悲しませたようだが、今ではそんなことはなかったかのように、鯉のぼりが青空の下ではためいている。
陵丘渺渺浪華東 陵丘渺々 浪華の東
獨入花園歩輕風 独り花園に入り 軽風に歩す
物換星移春幾度 物換り星移り 春幾度ぞ
往時記憶繞胸中 往時の記憶 胸中を繞る
(註一) 渺々=はてしなく広がるさま
(註二) 往時=一九九〇年に大阪で開催された国際
花と緑の博覧会の時をさす
令和三年三月
意訳 大阪市の東部に位置するに大きな丘陵部に広がる花園、そこを心地よい風に吹かれながら散策した。あれから早三十年、周りの環境は様変わりしたが、この花園は当時の面影を色濃く残しており、その記憶が胸中によみがえってきた。
1990年に、大阪の鶴見緑地で国際花と緑の博覧会が半年間にわたって開催され、私も来場者の交通計画に多少関与しました。鶴見緑地では、緑地の少ない大阪市の貴重な都市空間として、戦後の長きにわたって土地買収と空間整備が図られてきました。その集大成になったのがこの国際博です。国際博に合わせて、鉄道のなかったこの地区に、わが国初めての鉄輪式リニア地下鉄が導入されました。
博覧会では、「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」という長ったらしいテーマの下、世界中から2300万人の来場者を集めました。現在は、跡地に「咲くやこの花館」「ハナミズキホール」「花博記念ホール」「むらさき亭」などが整備されています。
全国漢詩の祭典宮崎では、10月24日の祭典の翌日に吟行会があり、雲一つない快晴の下、宮崎市近郊の宮崎神宮などを巡りました。宮崎神宮には、初代天皇である神武天皇が祀られています。神武天皇より前は神代であり、天孫降臨神話にまでさかのぼります。
天孫降臨とは、天孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみのかみ)の神勅を受けて天下ったことです。なお天孫ということばは、広義では天の神の子孫全般をさして使われ、神武天皇は天照大御神から5代目の天孫ということになります。
天孫降臨の地は霧島山の中岳と御鉢との谷間にある高千穂河原(地名)とされています。以前はこの場所には霧島神宮がありましたが噴火により焼失し、現在はそこに古宮址が残されています。
秋郊顥気滿乾坤 秋郊は 顥気 乾坤に満ち
十里吟行輕脚跟 十里の吟行 脚跟軽し
方是降臨神話地 方に是れ 降臨神話の地
勝遊古跡想天孫 古跡を勝遊して 天孫を想う
(註一) 降臨神話=邇邇芸命が日向に天下ったという
記紀に記された神話
(註二) 天孫=天の神の子孫、和語では降臨した邇邇
芸命
令和二年十一月 光琇
意訳 宮崎市郊外の秋は、清らかな気が天地に満ちており、吟行の足どりは軽い。ここは正に天孫降臨神話の地。古跡を巡ると、神話の神々や国生みの時代に想いがはせる。
南國旻天祥気催 南国の旻天 祥気催し
連盟騒客携詩来 連盟の騒客 詩を携えて来る
吟聲朗朗興何盡 吟声朗朗 興何ぞ尽きん
青眼披襟共挙杯 青眼 衿を披いて 共に杯を挙ぐ
(註一) 旻天=秋の空
(註二) 騒客=多感な詩人や文人
(註三) 青眼=気の合う友人
令和二年十月 光琇
意訳 南国の秋空はめでたい気配でいっぱいである。(全日本漢詩)連盟の詩人たちは詩を持ち寄ってここ宮崎に集まった。詩吟の声が大きく響き渡って興が尽きない。その後、気の合う仲間は胸襟を開いて酒席で懇親を深めた。
国民文化祭は、毎年、都道府県持ち回りで行われています。今年も10月17日から宮崎県で第35回の祭典が行われる予定でしたが、感染症の影響で、来年7月3日からに延期されました。国民文化祭では、いろんな文化的行事が行われ、その行事の中に漢詩部門が含まれる場合には、定例の全日本漢詩大会は、国民文化祭の中で漢詩の祭典として実施されるようです。国民文化祭宮崎が延期になったので、漢詩の祭典も延期されると思いきや、国民文化祭のさきがけプログラムの一環として、予定通り実施されることになりました。
漢詩の祭典は、全国的な晴天に恵まれた10月24日に宮崎市で行われ、来賓あいさつの後、地元清武小学校の演劇(郷土の偉人「安井息軒」)、受賞作品の選評・表彰・吟詠等がありました。私が昨年末に作詩した「晩秋真如堂」が秀作賞に選定されるという栄に浴しました。祭典の後に懇親会、翌日に吟行会があり、すべての行事に参加しました。
高槻市では、毎年市役所の正面で菊花展が開催され、今年も十月二六日から二週間、百五十鉢の大輪が展示されています。都市への人口集中により、宅地開発で緑が消えていくことを嘆いた各地区の菊の愛好家が集まって、公民館などで開催していた展示を、高槻市文化祭にて「菊花展」として実施するようにしたそうです。高槻市菊花協会の主催で、今年で52回目となります。
なお結句は、崔署の七言律詩「九日登仙台呈劉明府」の尾聯(7・8句)を拝借しました。その尾聯は、「且欲近尋彭澤宰、陶然共醉菊花杯(且く近く彭沢の宰を尋ね、陶然として共に菊花の杯に酔わんと欲す)」となっています。菊の花を浮かべた酒は、重陽の節句に飲むと長生きできるといわれています。
重陽節到素風回 重陽の節到りて 素風回り
黄白大輪撩亂開 黄白の大輪 撩乱として開く
馥郁幽香庭院遍 馥郁たる幽香 庭院に遍く
悠然欲醉菊花杯 悠然として 菊花の杯に酔わんと欲す
(註一) 重陽=五節句の一つ、陰暦九月九日の菊の節句
(註二) 撩乱=たくさんの花が盛んに咲いているさま
令和二年十月 光琇
意訳 重陽の節句となり秋風が気持ちいい。高槻市菊花展では黄色と白の大きな大輪が所狭しと並んでいる。かすかな香りが庭いっぱいに満ちており、こんなところで悠然と、菊の花びらを杯に浮かべて一杯やりたいものだ。
轟轟驚起仰蒼穹 轟轟 驚き起ちて 蒼穹を仰げば
編隊整然西又東 編隊 整然として 西又東
悪疫禍中催喜色 悪疫の禍中 喜色催す
六条雲彩美於虹 六条の雲彩は 虹よりも美なり
(註) 編隊飛行=医療従事者への謝意をこめた
ブルーインパルスの飛行をさす
令和二年六月 光琇
意訳 轟轟たる騒音に驚いて青空を見上げると、ブルーインパルスが整然と編隊飛行をしている。悪疫が蔓延する中、医療従事者への感謝を込めたイベントだ。6機が描く飛行雲は虹よりも美しい。
5月29日の正午過ぎ、航空自衛隊のアクロバット飛行チームの6機が、東京の感染症指定病院の上空を中心に白煙を吐きながら旋回しました。武漢肺炎の終息が見えない中、医療従事者への敬意と感謝を示すための飛行でしたが、飛行チームは「医療従事者だけではなく、私たちの飛行を見た人が前向きな気持ちになってくれたことをうれしく思う」と素直に喜びました。
ブルーインパルスとは、航空自衛隊の存在を多くの人々に知ってもらうために、航空自衛隊の航空祭や国民的な行事等で、華麗なアクロバット飛行を披露する専門チームの事です。正式名称は、宮城県松島基地の第4航空団に所属する「第11飛行隊」だそうです。
2020年には1970年の大阪万博開催から50周年を迎えます。大阪万博の来場者数は、6400万人で、それ以降にわが国で開催された万博の来場者数で、これを上回ったところはありません。各国のパビリオンは、どこも長蛇の列ができて入場するのは一苦労でした。もちろん現在はそんなパビリオンはありませんが、太陽の塔だけが当時の面影を残しています。
2025年に再び大阪で万博が開催されます。場所は大阪湾の埋め立て地の夢洲で、テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」です。はたしてどんな万博になるのでしょう。
秋日偸閑獨歩園 秋日 閑を偸みて 独り園を歩せば
夕陽金碧欲黄昏 夕陽金碧 黄昏ならんと欲す
往時喧噪都如夢 往時の喧噪 都て夢の如し
巨塔空留事業痕 巨塔 空しく留む 事業の痕
(註一) 金碧=黄金の色と碧玉の色
(註二) 巨塔=太陽の塔をさす
令和元年十月 光琇
意訳 秋の行楽日和に、閑を見つけて一人で公園をぶらぶらすると、いつの間にか黄昏時になり、夕陽が黄金色に輝いている。50年前の万国博覧会の喧噪はすべて夢の中の出来事のようだ。そんな中、太陽の塔だけがあの時の博覧会の痕跡を空しく残している。
奈良は京都とならぶ古い都で、京都に対して南都とよばれます。その奈良の夜に、8月の10日間蝋燭の灯が花を咲かせます。この「なら燈花会」は1999年に始まり、期間中奈良公園とその周辺各所で燈花が開きます。「燈花」とは、灯芯の先にできる花の形のかたまりです。写真左上は猿沢池の、写真右下は浮見堂の燈花です。
奈良には、父が進駐軍の通訳をしていた関係でよく連れて行ってもらいました。学生時代もよく行きましたが、広大な奈良公園とその周辺の雰囲気は以前と全く変わっていません。変わった点といえば、昔に比べて外国人が増えたことぐらいでしょうか。1300年前に都として栄えた奈良、これからも今まで通りの奈良であることを願います。
三伏南都日暮時 三伏の南都 日暮の時
深林幽径鹿園奇 深林 幽径 鹿園奇なり
清風蕭颯垂楊岸 清風蕭颯 垂楊の岸
映水燈花連玉池 水に映じて 燈花玉池に連なる
(註一) 三伏=夏の最も暑い時期
(註二) 南都=奈良
(註三) 蕭颯=風がさっと吹くさま
平成二十九年八月 光琇
意訳 暑い夏の日の夕暮れ時、奥深い林もひっそりした小道も鹿の公園も風変わりで趣深い。ヤナギの垂れた岸辺に風がさっと吹き、さざ波の立った池の水面に灯火が連なってこれまた趣深い景色を醸し出している。
4月29日に、芥川桜堤公園で「第26回こいのぼりフェスタ1000」が開催されました。名前の通り、1000匹の鯉のぼりが大空を舞います。この催しは、子供たちが健やかに育つことを願って、高槻の都市シンボルである芥川の河川愛護を目的に、平成4年から開催されています。鯉のぼりは、家庭で使わなくなった鯉のぼりの寄贈や幼稚園児の手作りのものが使われています。
フェスタでは親子連れが多く、子供たちが鯉のぼりの下で大はしゃぎしていました。少子高齢化社会では、老人の福祉も大事でしょうが、もっと大事なことは、今後この国を支えてくれる子供たちの育成をサポートすることです。
端午江辺新緑調 端午 江辺に新緑調い
悠然隔水鯉風飄 悠然たり 水を隔て 鯉風に飄る
男児簇簇可憐夢 男児簇簇たり 可憐の夢
笑語欣欣度碧霄 笑語欣欣として 碧霄を度る
(註一) 鯉幟=こいのぼり
(註二) 簇簇=むらがり集まるさま
(註三) 欣欣=よろこび楽しむさま
平成二十九年五月 光琇
意訳 端午の節句、川辺には新緑が出そろい、鯉のぼりが悠然と水の上で翻っている。男の子が群がって元気な笑い声が青空に響き渡り、(この子たちが成長して将来この国を支えるのかと思うと)感に堪えない。
4月7日に京都の上賀茂神社に行きました。境内も賀茂川の岸辺も桜が満開でした。ちょうどその日は、境内の庭園(渉渓園)で、平安時代の優雅な貴族の遊びを再現した賀茂曲水宴が催されていました。曲水宴では、曲水の傍に何人かの歌人が座り、上流から流れてくる杯が自分の前を通り過ぎるまでに和歌を創作します。そしてその和歌は、琴の流れる中で朗詠されます。
平安時代のこの優雅な遊びは、353年に中国の紹興にある蘭亭で催された曲水宴に由来しています。そのときには37首の詩が詠まれ、書家の王羲之がその序文(蘭亭序)を書きました。なお、蘭亭は現存していますが、蘭亭序は唐の太宗が崩じたときに陵墓に埋められたといわれています。
桜花時節社祠頭 桜花の時節 社祠の頭
曲水泛杯琴韻周 曲水 杯を泛べ 琴韻周る
往古雅懐披講宴 往古の雅懐 披講の宴
独催感慨凝吟眸 独り感慨を催し 吟眸を凝す
(註一) 社祠=土地の神、またそのやしろ(ここで
は上賀茂神社をさす)
(註二) 披講=詩歌などの会で、詩歌を読み上げること
平成二十九年四月 光琇
意訳 桜が咲き誇る季節の神社のほとりで、曲水に杯を浮かべて琴の音がめぐっている。古風・風雅な心情で詩歌を読み上げる宴に、一人で感動し、じっと見つめ続けた。
松尾大社は、京都の洛西に位置する古い神社です。社殿建立の飛鳥時代のころに初めてこの場所に祀られたのではなく、それ以前に住民が生活の守護神として尊崇したのが始まりといわれています。年中行事の一環として、2月3日に節分祭が行われ、神社の庭に設けられた舞台で島根県益田市の種神楽保存会による「石見神楽」が催されます。鬼退治やヤマタノオロチ退治などは熱気があふれ、その迫力は写真からでも伝わってくると思います。この神楽は、無形民俗文化財に指定されています。
節分の翌日は立春です。以前は季節の変る日の前日が節分で、年4回あったようですが、今では立春の前日だけをさすようになっています。2月3日、松尾大社に到着した9時過ぎには人はまばらでしたが、神楽が始まる10時には人であふれかえり写真撮影には苦労しました。
軽煙揺漾洛西隈 軽煙 揺漾 洛西の隈
舞楽盛観壇上開 舞楽 盛観 壇上に開く
鼓声流処払邪鬼 鼓声流るる処 邪鬼を払い
佳日先知節気回 佳日に先ず知る 節気の回るを
(註一) 揺漾=ゆらゆらと漂うさま
(註二) 節気=二十四節気
平成二十九年二月 光琇
意訳 霞たなびく京都洛西の一角の壇上で、舞踊と音楽が披露されている。太鼓の音が流れるところで邪気を払い、今日のよき日に節分がめぐってきたことを実感した。
暮雲漂處夕陽収 暮雲漂う処 夕陽収まり
夜熱追涼上小丘 夜熱に涼を追い 小丘に上る
煙火如花接天發 煙火花の如く 天に接して発き
間忘塵事爽双眸 間し塵事を忘れ 双眸爽やかなり
(註) 煙火=花火
平成二十七年八月 光琇
意訳 夕日が沈み、夕暮れの雲が漂っている。まだ昼間の暑さが残っているので、涼をもとめて小丘に上った。そこから茨木の空を見ると、花火が天高く花開き、しばらく煩わしいことを忘れて爽やかな気分を味わうことができた。
パッと咲いてサッと散る花火、これなしに日本の夏は語れないといっても過言ではないでしょう。中国語辞典で「花火」を引くと「煙火」と出てきますが、「煙火」を漢字源で引くと「飯を炊く時の煙」「のろし」と出てくるので、中国では花火の歴史は浅いのでしょう。唐詩で「花火」をテーマにしたものは見たことがありません。
茨木市の花火大会の正式名称は「辯天宗夏祭奉納花火大会」です。家の近くの小高い丘に上れば見えるので、3年ほど前に孫に見せてあげました。50年以上も続いている行事のようでが、2015年は中止になりました。13年の福知山花火大会の火災事故が関係していると思われます。枚方市の「くらわんか花火大会」も財政難から中止になりました。花火は日本人の元気の源なので、両方とも復活してほしいものです。
京都の嵐山花灯路は、京都・花灯路推進協議会の主催で、2005年から毎年12月の中旬に、京都の嵯峨・嵐山地区周辺で行われる観光イベントです。2500基の行灯による花の路やいけばな、渡月橋のライトアップなどが繰り広げられ、今ではすっかり京都の冬の夜の風物詩になりました。
2013年9月に、台風18号の襲来により桂川が氾濫しました。その復旧工事は急ピッチで進み、何とかこの年も花灯路を開催することが出来ました。12月14日から23日までの10日間の開催で、私は最終日に行きました。夜の寒さにもかかわらず人がいっぱいで、数々の演出に皆さん酔いしれている様子でした。特にライトアップされた渡月橋(写真)は幻想的な雰囲気を醸し出し、復旧を象徴しているように思えました。
嵐山豪雨已痕消 嵐山の豪雨 已に痕は消え
燈影幽玄渡月橋 灯影は幽玄なり 渡月橋
江水紅粧遙夜興 江水の紅粧は 遥夜の興
落楓竹葉得風飄 落楓 竹葉 風を得て飄る
(註)九月十六日に台風十八号による被害を受けた嵐山
は、今見事に復活し、十二月の夜は渡月橋を中心
に街全体がライトアップされている。
平成二十五年十二月 光琇
意訳 嵐山を襲った豪雨災害の傷跡はすでに癒え、渡月橋には優雅に灯影がともっている。灯で赤く染まった川面は、長い夜を演出している。また、落楓と竹葉が風の中で翻っているのも趣を添えている。
三伏水都灯影充 三伏の水都に 灯影充ちて
斉船渡御大江中 斉船渡御す 大江の中
幾千煙火逼天上 幾千の煙火 天上に逼り
雅楽神鉾舞晩風 雅楽 神鉾 晩風に舞う
(註一) 三伏=夏の最も暑い時期
(註二) 大江=大阪市の都心を流れ天神祭船渡御の舞台と
なる大川(おおかわ)をさす
(註三) 煙火=花火
平成二十五年八月 光琇
意訳 真夏の水都大阪に灯影が満ちて、大川の川面を船団がそろって渡っていく。何千という花火が天に届かんばかりに打ち上げられ、雅楽と鉾が夕暮れの風の中をめぐっている。
大阪の夏の風物詩は何といっても日本三大祭りのひとつである天神祭でしょう。天神祭は大阪の祭りだと思っていたのですが、ウィキペディアを読むと、「日本各地の天満宮(天神社)で催されるお祭りのことで、大阪の祭りが有名である」となっていました。暑さのピークの7月24日に宵宮の行事として行われる船渡御(ふなとぎょ)では、100隻の大船団が大川を航行します。そして暗くなると5000発あまりの花火が打ち上げられ、宵宮のピークをむかえます。
私は中学・高校が大川の近くだったこともあり、昔はよく見物に行きました。最近は、あの満員電車のような人ごみのせいか、高齢のせいかはわかりませんが、ご無沙汰しています。2013年も行けなくて名残惜しかったので、詩を作って自らを慰めることにしました。写真の花火は、4年後に桟敷席から撮影したものです。
伊勢神宮では20年に一度、社殿を建て替えて神座を遷す式年遷宮が行われます。690年に第一回の遷宮が行われて以降1300年以上も続く壮大な儀式で、2013年は、第62回式年遷宮が行われました。20年ごとに遷宮が行われる理由はいろいろ言われていますが、土木技術者である私は、あまり間が空くと技術の伝承に支障をきたすという理由を重要視しています。技術伝承は直面している現実的な課題だからです。
近鉄電車を乗り継いで伊勢神宮を訪れたのは、夏真っ盛りの7月です。すでに新しい神殿は建造されており、10月に行われる神体の渡御(とぎょ)を待っている状態でした。外宮の入り口を入ったところに、神宮と遷宮をわかりやすく伝えるための「せんぐう館」が設けられています。
鬱蒼老樹浄無塵 鬱蒼たる老樹 浄くして塵無く
淑気蓬蓬自有神 淑気蓬蓬 自ずから神有り
迎就遷宮傳統式 迎え就す遷宮 伝統の式
千秋護持殿堂新 千秋護持して 殿堂新なり
(註一) 淑気=穏やかでさわやかな気配 湧く
(註二) 蓬蓬=もくもくとわきあがるさま
平成二十五年七月 光琇
意訳 鬱蒼とした古木は清浄で穢れがない。穏やかでさわやかな気配が立ち上り、自然界の不思議な力を感じる。伝統の式年遷宮を迎えて、千年護持してきた伝統の下、殿堂が装いを新たにする。
良宵仰看鵲橋邊 良宵 仰ぎ看る 鵲橋の辺
燦燦銀河横満天 燦々たる銀河 満天に横う
織女隔年思慕極 織女 年を隔て 思慕極まるも
逡巡霄漢渡江煙 逡巡す 霄漢 江煙を渡るを
(註一) 鵲橋=七夕の夜に牽牛と織女を逢わせるた
め、かささぎが翼を並べて天の川にかける橋
(註二) 逡巡=ぐずぐずしてためらう
(註三) 霄漢=はるかな大空
(註四) 江煙=川にかかるもや
平成二十四年七月 光琇
意訳 さわやかな夕暮れ時に、天の川にかかるというカササギ橋のあたりを見上げると、銀河が燦燦と満天に輝いている。織姫様が一年間待って会いたい思いが極まっているのだが、(軽くみられたらいけないので)会いに行くのを躊躇しているのではないだろうか。
七夕(たなばた、しちせき)は、日本だけではなく中国、台湾、韓国、ベトナムでも節句になっているようです。もともとは中国での行事であったものが、奈良時代に日本に伝わってきたと言われています。七夕祭りは7月7日の夜が標準ですが、仙台のように月遅れで行われているところもあります。
牽牛と織女は天の川で隔てられており、1年に1度しか川を越えて会うことが許されていません。このチャンスを逃すとまた翌年まで逢えなくなるので、夜になるとカササギたちは翼を並べて天野川に橋を架け、牽牛と織女のデートを支援します。この詩に対して、ある詩人から「織女がなぜ逡巡する(躊躇する)のか、詩からわからない」というメールがきました。「女性の側から逢いに行くというのはやはり躊躇するのではないですか。(軽く見られたらいけないし、逢ってもらえないかもしれないし)」と返信しておきました。織女は牽牛に片思いという説もあり、そうであれば猶更のこと逡巡するでしょう。