◇能登半島地震有感
◇憶東北災禍
◇球磨川流域洪水禍
◇想御嶽山噴火禍
◇御嶽山有感
◇颱風二十一号
◇新秋颱風一過
◇西日本豪雨
◇大阪北部地震
◇北陸豪雪
◇阪神震災二十年
◇東北傷深
元日の夕刻、高槻の自宅で家族が集まって団らんしていると、激しくはなかったですが突然グラグラと揺れてテーブルの下にもぐりました。その揺れは、二〇一一年の東北地方太平洋沖地震の時と似てしばらく続いたので、どこかで大きな地震が起こっていると直感しました。そして、その直後のニュースで能登半島が大変な地震に襲われたことを知りました。一九九五年の兵庫県南部地震以来、震度七級超の地震が頻発するようになりました。二〇〇四年の新潟県中越地震、二〇一一年の東北地方太平洋沖地震、二〇一六年の熊本地震、二〇一八年の北海道胆振東部地震に続いて今回の地震が発生しました。わが国では今後、巨大地震がいつ・どこで発生してもおかしくない状態になっています。
一月三〇日の読売新聞の朝刊には、能登半島地震は、マグニチュード七、三相当の二つの地震が震源域近くでわずか十三秒差で発生した可能性があることが、京都大防災研究所の解析でわかったとの記事がありました。すなわち、一回目の揺れが収まる前に二回目が発生したことで激震になったということです。またこの前後の地震も含めた連動型地震により、地盤変異やそれに伴う津波が被害規模を大きくしました。さらに、能登半島では古い家屋が多いことが倒壊を招き、また半島という地理的条件が救援活動を難しくしました。
東日本大震災は、2011年3月11日に発生しました。地震の規模が大きかったことに加えて、大津波と火災を誘発し、福島第一原発事故をも引き起こしました。死者数は、行方不明者や震災関連死を含めると2万2千名以上となりました。
発災時刻の14時46分過ぎに、私は新大阪にある本社ビルの8階にいたのですが、ゆっくりした揺れが長く続き、その後、東北地方太平洋沖を震源とするマグニチュード9.0の地震による揺れであることがわかりました。東北での発震が大阪まで揺れが伝わるということから、余程大きな地震であったことは容易に想像できました。その1週間ほど後に現地に飛び、レンタカーで被災地を回ると、信じられないような光景が目に飛び込んできました。自動車が紙屑のようになって道端に転がっており、大きな船が内陸に打ち上げられていたりして、阪神淡路大震災とはまた違った被災地の様相でした。
14-15mの津波に襲われた福島第一原発は、1-5号機で電源喪失して原子炉を冷却できなくなり、メルトダウンが発生しました。その結果、放射性物質の漏洩を伴う重大事故に発展し、処理や住民避難が長期化するとともに、居住制限区域等も設定されました。
東北地方整備局の「くしの歯作戦」による幹線道路の整備や鉄道の復旧、高台での宅地の整備等が鋭意進められましたが、家や職場を失った住民は地元から離れざるを得ず、災害から12年たった今も、多くの住民がいまだに戻ってこない状態が続いています。
意訳 津波が(東北の街に)襲いかかったために家が波に飲まれ、何万人にも及ぶ住民は痛ましくつらい生活を強いられることになった。宅地や道路・鉄道などのインフラの復興は徐々に進んできたが、被災地から出て行った人の多くはまだ地元に戻ってきていない。かつての賑わいが戻るのに、どれぐらいかかるのだろうか。
連日梅天列島横 連日の梅天 列島に横わり
傾盆豪雨溢江城 盆を傾く豪雨 江城に溢る
十年無策代償甚 十年の無策 代償甚だし
治水経営不可輕 治水の経営 軽んず可からず
(註一)十年無策=球磨川流域では、十年前にダム建
設を中断したまま放置されました
(註二)経営=土地を図って線を引く、転じて土台を
据えて建設すること
令和二年七月 光琇
意訳 梅雨前線が日本列島に横たわり、雨の日が続いた結果、球磨川流域では水をためた盆を傾けたような豪雨により、まちに水が満ち溢れた。ダムの建設を中断したための洪水であり、その代償は甚だしいものとなった。治水を軽んじてはいけないという教訓である。
今年は7月に日本列島で長雨が続き、九州南部を中心に洪水被害が広がりました。特に熊本県人吉市などでは、球磨川の氾濫により浸水が続き甚大な被害となりました。今回の球磨川氾濫による浸水深は、これまで戦後最大とされてきた1965年のそれを上回りました。
球磨川流域では、十年前の民主党政権下で、これまで続けてきた川辺川ダムの建設が中断され、当時の熊本知事(=今の知事)がそれを追認したまま代替策をとらなかったために、今回の大被害につながりました。同じように十年前に建設が中断された八ッ場ダムについては、地元の知事が中断に反対して建設を続行して昨年に概成していたため、台風19号による大雨をダムがせき止め被害を軽減できました。まさに治水に対する為政者の決断が明暗を分けたわけです。
古くから「水を治める者は国を治める」と言われるように、治水は人の生命に直結するため、それを軽んじてはいけません。
御嶽山は、長野県と岐阜県の県境に位置する標高3067mの活火山です。この山が2014年9月27日11時52分に突然噴火し、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡し、5名が行方不明になりました。中腹には赤茶けた大きな噴石が今も転がっています。
噴石が飛び交う中、山頂付近で石造りの台座によりかかって助けを求めて救助された女性の手記が産経ニュースに掲載されていますので、その一部を紹介します。(前略)降りしきる噴石で左腕を失い、腰や背中にも傷を負った。動くたびに激痛が襲い、貧血で何度も意識が遠のいた。「私に気づいていないのかもしれない」。なかなか近づいてこないヘリを見ながらそう思っていると、手元の携帯電話に着信があった。「どこにいますか」。災害対策本部からの電話だった。前日、ともに山をのぼり、無事助かった友人が通報していてくれたのだ。(以下略)
秀峰中腹到山荘 秀峰の中腹 山荘に到れば
噴石塁塁知禍殃 噴石累々 禍殃を知る
追想遊人無限恨 追想す 遊人の無限の恨みを
低頭黙祷涙作行 頭を低れて黙祷すれば 涙 行を作す
(註) 禍殃=わざわい
令和元年七月 光琇
意訳 御嶽山の中腹の山荘に到着すると、周りには噴石がごろごろしており、当時の噴火災害を思い起こさせる。ここに旅した犠牲者の無念を想い、頭をたれて黙禱すると、自然と涙が流れ落ちる。
11月の下旬に信州のツアーに参加し、木曽町にあるホテルに一泊しまし、朝起きてみると、白雪を帯びた御嶽山が眼前で朝日に映えていました。昨夜の雨が冷えて初雪になったようです。台形をしているので、当初の詩では「霊峰」となっているところを「連峰」としていました。ところが、詩の仲間に山好きがいて、御嶽山は独立峰であると指摘されました。調べてみると指摘は正しかったので修正しました。
御嶽山は長野県と岐阜県にまたがる標高3,067mの火山です。2014年の突然の噴火と火砕流により多くの犠牲者が出ました。現在は地震活動が低下の傾向にあるものの、火口から概ね1km内は立ち入り禁止となっています。
木曽江畔立清晨 木曽の江畔 清晨に立ち
仰看孤峰白雪新 仰ぎ看る孤峰 白雪新たなり
忽憶降灰噴石事 忽ち憶ゆ 降灰 噴石の事
無情惨禍獨傷神 無情の惨禍に 独り傷神す
(註) 傷神=心を痛める
平成三十年十一月 光琇
意訳 すがすがしい朝、木曽の川のほとりに立って御岳山の峰を仰ぎ見ると、新しく白雪が積もっている。その時ふと、火山灰や噴石が降ってきた噴火のことを思い出した。情け容赦のないひどい災害で一人心を痛めてしまった。
猛雨狂風昼尚昏 猛雨 狂風 昼尚昏く
四邊草木舞乾坤 四辺の草木 乾坤に舞う
山崩川溢無情景 山崩れ 川溢れ 無情の景
災禍頻頻欲断魂 災禍頻々 魂を断たんと欲す
平成三十年九月 光琇
近畿を直撃した台風21号は、生まれて初めて経験するすごい台風でした。風で雨戸がガタガタ鳴り、家が吹き飛ぶかと思いました。庭の植木鉢はすべて倒れていましたが、幸い家は倒れずに済みました。震度6強の地震で瓦のずれた近所の家は風でさらに瓦が動き、ブルーシートで覆った屋根がさらに増えました。
地球温暖化の影響でしょうか、台風は年々激しくなっているような気がします。温暖化は当分続くと思われるため、今後も大型の台風が頻繁に発生するのでしょう。恐れおののいているだけでは被害を免れることはできません。予防防災で台風などに備えることが大事ですね。
意訳 激しい雨と狂った風が吹いて昼なのにあたりは暗い。周辺の草木は天地に舞っている。山は崩れ川はあふれて見る影もない。最近は災害が頻繁に発生して魂が消え入りそうだ。
大阪北部地震により、屋根瓦がずれてブルーシートをかぶせている家が散見されるようになりましたが、その後さらに台風21号により瓦のめくれた家が増えました。ブルーシートが吹き飛ばされたところもあります。屋根修理業者は手いっぱいで、なかなか修理に来てくれないようです。
市街地はそんな状況ですが、大阪府北部と京都市との境界付近の山間部で、もっとひどい状況を目にしました。山肌の杉の木が、写真のようにほとんどなぎ倒されているのです。よっぽど強い風が谷筋を通り過ぎたのでしょうね。ほとんど被害を受けていない山肌もあるので、谷筋によって風の強さが異なったということなのでしょう。こんなひどい台風は、今回限りにしてほしいものです。
意訳 雨上がりの山の中腹には、うす靄がかかっている。飛び回る鳥はおらず、一面にわびしさが漂っている。おびただしい数の杉の木がなぎ倒されており、ひどい傷跡だ。その有様を見て、しばらく茫然として立ち尽くしてしまった。
2018年6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に豪雨が続き、洪水や土砂崩れなどにより甚大な被害が発生しました。岡山県、広島県、愛媛県での被害が特に大きかったのですが、京都でも一部の地区で避難指示が出ました。写真は知人が撮影した賀茂川の増水ですが、南丹市にある日吉ダムの放水量調節により氾濫を防ぐことができました。
1995年の阪神淡路大震災以降、毎年のように大災害が日本列島を襲うようになり、さすがに今では「コンクリートから人へ」というようなバカげた言葉を聞くことはなくなりました。インフラは空気のようなもので普段は有難味を感じませんが、有事には災害の軽減に不可欠です。
濁流如矢破山川 濁流矢の如く 山川を破り
積雨不休人不眠 積雨は休まず 人眠らず
災禍激甚桑海変 災禍 激甚 桑海の変
無言只願復興遄 言無なく只願う 復興の遄やかなるを
(註) 桑海の変=桑田変じて海となる(世の中の移り変わりの
激しいこと)
平成三十年七月 光琇
意訳 濁流が勢いよく流れて山間部の川の堤防を突き破っても、なお長雨はやまず、眠るのもままならない状態が続いた。そのため、被害は甚だしく、景色が一変してしまった。言葉もなく、ただ復興が速やかに進むのを願うのである。
大阪北部地震は2018年6月18日の朝に起こりました。知人運転の車で移動中に、ガタン・ガタンと揺れたので、石でも踏んだのかと思った直後に携帯に発災の知らせが入りました。山道だったので、一歩間違えば谷底に転落していたかもしれません。地震の規模はM6.1で、震源の深さは15km、高槻市・茨木市などで最大震度6弱を観測しました。
1995年の阪神淡路大震災の時の高槻の揺れもひどかったですが、今回はそれを上回るものでした。4月に瓦の軽量化を含む家の耐震補強工事をしたところだったので、我が家は事なきを得ましたが、被害は広域に及んでいます。また、不幸な事故もあり胸が痛みます。
梅霖北摂送春時 梅霖の北摂 出門の時
激震襲来山野馳 激震襲い来りて 山野を馳す
地裂崖崩家倒壊 地裂け崖崩れ 家倒壊す
突如災禍可怨誰 突如の災禍 誰を怨むべけんや
平成三十年七月 光琇
意訳 北摂地域の梅雨の時節、家を出ようとしたときに突然激震が襲い、その揺れは広い範囲に及んだ。地面は裂け、崖は崩れ、家は倒壊した。突然の災害に怨みがつのるが、一体だれを恨んだらいいのだろうか。
酷寒北国朔風穿 酷寒の北国 朔風穿ち
晩景皚皚雪滿天 晩景皚皚 雪 天に満つ
禽鳥無聲人影滅 禽鳥声無く 人影滅し
青燈一穂野橋妍 青燈一穂 野橋に妍たり
(註) 皚皚=明るく白いさま
平成三十年三月 光琇
大阪から白川郷・富山へのバスツアーのルートは、名神高速道路の一宮Jctから東海北陸自動車道に入る予定でしたが、同自動車道が雪のため通行不能になり、急遽北陸自動車道経由になりました。目的地の富山県はもちろんのこと、途中の滋賀県、福井県、石川県も大雪でした。JRのサンダーバードは運休でしたが、高速道路は何とか通行可能でした。
今年は、地球温暖化が信じられないぐらい北陸で雪がよく降りました。昼食のすし屋では、こんな雪は久しぶりということで、地元の人もびっくりです。夜はほとんど人影がなくなり、町はゴーストタウンのようでした。
意訳 厳しい寒さの北国に北風が吹き荒れ、夕暮れの景色は白一色で雪が天地に満ちている。鳥の声も聞こえず人影も消えている。そんな中、街灯の青白い光が一点、橋のたもとでポッと美しくともっている。
激甚禍災年月移 激甚なる禍災 年月移り
復興艱難少人知 復興の艱難 人の知ること少なり
欲懐往事巷間立 往事を懐わんと欲し 巷間に立てば
今日無痕多所思 今日痕無く 所思のみ多し
(註一) 艱難=なんぎ
(註二) 巷間=町の中、市中
平成二十七年八月 光琇
意訳 激甚災害からすでに二十年が経過した。あの時の復興に若干関与したが、その大変さを知る人は少ないだろう。当時のことを思い出そうとして街中に立って見渡すと、今はその傷跡はすっかり癒えており、いろんな思いが脳裏をよぎるだけである。
平成7年1月17日の早朝、阪神・淡路地域を大変な地震が襲ったことを知りました。阪神高速道路の倒壊と火災の状況は衝撃的でした。当日は電車が止まっていたので自宅で待機しましたが、翌日から出社し支援物資の搬送などを行いました。
週末に西宮市役所に行って驚きました。仮庁舎のひどい職場環境の中で、すでに顔見知りの職員が復旧の仕事をしていたのです。自宅が倒壊しているのに公務を優先しているのです。月末に北回りで鉄道を乗り継いで兵庫県庁に行くと、そこでも同じような状況でした。私も微力ながら県・市の復旧・復興業務に関与しましたが、地元行政の不眠不休の尽力は大変なものでした。街中に立つと、今は何事もなかったかのようですが、当時のことがあれこれ頭をよぎります。
阪神淡路大震災の時は、大阪の会社から近いこともあってすぐに現場に駆けつけることができたのですが、東日本大震災の時はなかなか現場に行くことができず、やっと7月に石巻市と女川町に行くことが出来ました。その時に見た傷跡は衝撃的でした。年末には東北支社を開設して社員を送り込み、復旧・復興に当たることにしました。
結句(第4句)の「衆志成城」というのは、毛沢東がよく唱えた四字熟語で、四川地震からの復旧・復興の合言葉にもなりました。初出は春秋時代の「国語」であるといわれています。
この漢詩を翌年の年賀状に入れたところ、中学の時の女性の恩師から、「出版予定のエッセー集に入れたい」という突然の電話があり、何か月か後に、水彩画入りの美しい本が送られてきました。お礼にお伺いしたいとの電話をしたのですが、そのすぐ後に先生は残念ながら亡くなられ、結局お会いすることができませんでした。
雲影風来臨海低 雲影風来 海に臨みて低れ
波平鷗舞爪痕凄 波平らかにして鴎舞うも 爪痕凄まじ
仰天憂憤無情理 天を仰ぎて憂憤す 情理の無きを
衆志成城再築堤 衆志成城 再び堤を築かん
(註)衆志成城=一致団結すればどんな困難も克服できるというたとえ
(中国春秋時代の歴史書「国語」より)
平成二十三年八月 光琇
意訳 雲が風で流れて来て海の所に垂れている。今は波も静かでカモメが何食わぬ顔で舞っているが、災害の爪痕はすさまじい。天を仰いでこの不条理を憤ってはみるがどうしようもない。堤防を再建するなど街の復興を皆で一致団結して進めよう。