◇座雨
◇餞春
◇入梅
◇梅天排悶
◇惜春
◇雨天閑居
◇芥川看螢火
◇歩六甲新緑
◇流螢
毎年、六月の梅雨の季節には、鬱陶しい長雨が続きますが、植物はこの雨を吸収して二酸化炭素との光合成により有機物を合成します。植物の成長期に長雨が続くというのは、植物にとって有難い自然の摂理という事になります。
自然からの水の補給は、雪解け、梅雨、秋の台風が主なものです。雪解けと梅雨は特に稲作にとって重要。地球温暖化により降雪量が減ると、稲作可能地が北上するという学者もいます。私は地球温暖化をそれほど信じていないので、その心配をしていませんが、それより、地震が最近多くなってきたことを危惧しています。
連日漏天花漸稀 連日の漏天 花 漸く稀なり
小齋獨坐送春帰 小斎 独り坐して 春の帰るを送る
當知雨露山河潤 当に知るべし 雨露は山河を潤し
芳草芊芊新緑肥 芳草芊々新緑肥ゆるを
(註) 芊芊=草の盛んに茂るさま
令和四年五月 光琇
意訳 連日雨がちの天気で、花もだんだんと少なくなってきた。一人粗末な部屋に座って春の終わりの景色を眺めている。この雨が山河を潤すことにより、芳草も茂り樹木の新緑も芽ぶくことを知れば、長雨も悪いものではない。
暮煙漠漠雨糸糸 暮煙漠々 雨糸糸たり
一片愁心鳥語悲 一片の愁心 鳥語悲し
莫悵春帰留不得 悵む莫れ 春帰りて 留まり得ざるを
緑陰爽気勝花時 緑陰の爽気 花時に勝る
(註) 漠漠=物音がせず寂しげであるさま
令和四年三月 光琇
春の過ぎるのは寂しいものです。しかし、桜もすぐに咲いてすぐに散るから、わくわく感や高揚感を感じるのでしょう。季節の流れを楽しむようにしたいものです。
転句は、白居易の「三月三十日題慈恩寺」の以下の転句をもじりました。「慈恩春色今朝尽(慈恩の春色今朝尽き)、尽日徘徊倚寺門(尽日徘徊して寺門に倚る)、惆悵春帰留不得(惆悵す春帰りて留まり得ざるを)、紫藤花下漸黄昏(紫藤花下漸く黄昏)。また結句は、王安石の「初夏即事」の以下の結句をもじりました。「石梁茅屋有彎碕(石梁茅屋彎碕有り)、流水濺濺度両陂(流水濺濺として両陂を度る)、晴日暖風生麦気(晴日暖風麦気を生じ)、緑陰幽草勝花時(緑陰幽草花時に勝る)。
意訳 夕暮れのもやがたちのぼり、細かい雨が音もせずに寂しく降り続いている。そんな中、(春が終わろうとしていることへの)少しばかりの愁心のためか、鳥の声も悲しげに聞こえる。行く春を引きとめるすべがないと残念がるのはせんないこと。緑陰の新緑も、花さく春の雰囲気に勝るとも劣らず爽やかだ。
今年は梅も桜も開花が早く、それに倣ったというわけでもないでしょうが、梅雨入りも5月半ばという早さでした。と思って5月に入梅の詩を作ったのですが、雨は1週間もしないうちに終わり、6月下旬に梅雨が再開するという遅い梅雨入りになりました。それはともかく、梅雨は時期に関係なく嫌なものです。庭の紫陽花だけが気持ちを慰めてくれますが。
武漢肺炎もなかなか終息の気配を見せないので、宴会はもとより、囲碁の会や撮影会などもすべて中止になりました。ゴルフだけは細々と続けていたのですが、それも雨の中ではやる気がしません。梅雨も疫病も早くおさまってほしいものです。
梅霖屑屑湿間庭 梅霖 屑々 間庭を湿し
陋巷模糊晝尚冥 陋巷 模糊として 昼尚冥し
疫病禍中無友訪 疫病禍中 友の訪う無く
旬餘檐滴不堪聽 旬余の檐滴 聴くに堪えず
(註一) 屑々=雨などの細く降るさま
(註二) 陋巷=狭くてむさ苦しい町
令和三年五月 光琇
意訳 梅雨の長雨が庭先にしとしとと降っており、街中はうすぼんやりとして昼間だというのに薄暗い。疫病がまだ蔓延しているので、友人の訪問はない。こんな状況で十日余り、ひさしの雨音を聴き続けるのにもう堪えられない。
今年の近畿の梅雨入りは、平年より19日遅い6月26日ごろで、記録的な遅さだったようです。この詩は、ちょっと先走って5月中旬に作ったので、連日の雨を想像しながらの詩となりました。詩では、庭のバラが露を含んで咲いているとしていますが、5月の中旬は雨が少なかったので、写真は露を含んだバラになっていません。
京都の植物園にもバラを撮りに行きました。ネットでは、近畿のおすすめバラ園8選として、びわこ大津館イングリッシュガーデン(滋賀)、あやべグンゼスクエア綾部バラ園(京都)、中之島公園(大阪)、オッペン化粧品ローズガーデン(大阪)、荒牧バラ公園(兵庫)、須磨離宮公園(兵庫)、おふさ観音(奈良)、海舟岬のバラ園(和歌山)があがっていました。
連日漏天人自愁 連日の漏天 人 自ずから愁う
無聊獨酌雨聲収 無聊 独り酌めば 雨声収まる
初知簾外薔薇發 初めて知る 簾外 薔薇の発くを
含露深紅凝醉眸 露を含みて深紅 酔眸を凝らす
(註) 無聊=なんとなく気が晴れない
令和元年五月 光琇
つい先日、梅が咲いて春の訪れを知らされたところですが、早くも梅雨入りで春が終わろうとしています。昔に比べて、春・秋の快適な時期が短くなったような気がします。都市化が進んで、雨が地下にたまらず、すぐに川に流れ込んでしまうため、地面が温まりやすく冷めやすくなっているためではないかと思います。
しかし春には、梅の次は桜、その次はハナミズキ、つつじ、さつき、紫陽花というように、花たちが人の目を楽しませてくれます。花だけではありません、冬の雪、春の新緑、秋の紅葉もいいですね。多少快適な時期が短くなったとしても、四季のある国日本に生まれてきてよかったと思います。
殘花欲盡雨絲絲 残花尽きんと欲し 雨糸糸たり
庭樹陰陰鳥語悲 庭樹陰々 鳥語悲し
悠見幽山淡霞裏 悠かに見る幽山 淡霞の裏
晩春一刻坐茅茨 晩春の一刻 茅茨に坐す
(註) 茅茨=ちがやといばらでふいた屋根、転じて粗末
なあばら家
平成三十年五月 光琇
意訳春の残花もなくなりかけており、そんな花を落とすかのように細かい雨が続いている。庭木も薄暗くて鳥の声も物悲しい。はるか向こうの山は霞んで見える。そんな晩春に、ぼんやりとあばら家に座っている。
晩春霖雨暗消魂 晩春の霖雨 暗に消魂す
草屋簷陰昼尚昏 草屋の簷陰は 昼 尚昏し
風送軽寒人出懶 風は軽寒を送り 人 出づるに懶く
書窗蟄居酌残樽 書窓に蟄居し 残樽を酌む
平成三十年五月 光琇
今年は空梅雨でしたが、最後に土砂降りが続き大きな被害が出ました。この詩は土砂降りの前の作ですが、空梅雨であっても梅雨はうっとうしいものです。細雨の後はすがすがしいはずですが、何となく薄暗く、薄ら寒くて外に出る気がしません。かといって書斎で詩でも作ろうという気にもならず、ちびりちびりとやってしまいました。
閑居とは、静かな住居という意味もありますが、ここでは仕事などをしないで閑でいるという意味です。退職後は24時間が自分の時間となりました。趣味で毎日を楽しんでいますが、家内の目には暇つぶしと写るようです。
意訳 晩春の長雨にはうんざりする。我が家の軒下は昼間なのに薄暗い。風があって少し肌寒く外に出かける気がしないので、書斎に閉じこもって残り酒を飲ることにしよう。
渓水潺潺一径微 渓水潺潺として 一径微かに
無人腐草岸霏霏 人無く 腐草岸に霏霏たり
忽浮螢火往来影 忽ち浮かぶ 螢火往来の影
明滅両三江上飛 明滅し 両三江上に飛ぶ
(註一) 潺潺=水がさらさらと流れるさま
(註二) 腐草=礼記の月冷篇に「季夏の月、腐草螢と
為る」とあるのをふまえる
(註三) 霏霏=草などが入り乱れて茂るさま
平成二十九年六月 光琇
高槻市を流れる芥川の下流で市がホタルの養殖を行っており、6月の初めごろからホタルが飛び交います。ホタルの成虫は夜露だけで生き延び、1週間ぐらいで短い命を終えます。
芥川は自宅から近いので、毎日のように撮影に出かけました。飛び交う時間帯は、夜の8-9時、11時前後、夜中の2時前後ですが、あまり遅くにうろうろすると危険なので、8-9時に撮影しました。しかし、ホタルに焦点が合わずに光の線が太すぎたり、背景が暗すぎたりして、結局うまく撮影できませんでした。今年の反省を踏まえて来年再度挑戦しようと思っています。
意訳 谷川の水がさらさらと流れ、一本の小道がひっそりと通っている。人影はなく、腐りかけた草が岸辺に茂っている。その時突然、二三の蛍が草の中から出てきて、点滅しながら川の上に飛んで行った。
5月の中旬に神戸市の森林植物園に行き、新緑の中を歩き回って写真もいっぱい撮りましたが、いい写真を撮ることができませんでした。森林植物園へは、三宮から市バスで30分曲がりくねった山道を北上し、帰りは無料送迎バスで北鈴蘭台まで行って神戸電鉄を利用しました。
森林植物園は、「六甲の山なみと自然を背景に、端正な樹形をした針葉樹を林として植栽し、四季を彩る落葉樹や花木をそえる」という構想の下に、昭和15年に創設されました。六甲山地の西部に位置し、日本の代表的な樹木や世界各地の樹木が原産地別に植えられています。園内には、カキツバタやスイレンの咲き誇る長谷池や野鳥園もあります。総面積は142.6haです。
物外青山風葉声 物外の青山 風葉の声
渓流滾滾水煙清 渓流滾々として 水煙清し
忽聞鶯語閑林路 忽ち聞く 鶯語 閑林の路
嫩色万枝漫歩軽 嫩色万枝 漫歩軽し
(註一) 物外=俗世間の外
(註二) 嫩色=草木のわかわかしい色
平成二十九年五月 光琇
意訳 俗世間から隔れた青々とした六甲山は、風に揺れる木の葉の音がすがすがしい。谷川の水はこんこんと流れて立ち上る水煙が清らかだ。いきなり静かな林の道から鶯の声が聞こえてきた。そんな新緑がいっぱいの景色の中、足取り軽く散策した。
蒼天欲暮轉寥寥 蒼天暮れんと欲し 転寥寥
雨後蘆汀妙舞妖 雨後の蘆汀 妙舞妖し
何為隨風燃薄命 何すれぞ 風に随ひ薄命を燃やすや
誰知月下戀情焦 誰か知らん 月下に恋情の焦るるを
(註一) 寥寥=うつろでひっそりしているさま
(註二) 蘆汀=あしのはえているみぎわ
(註三) 何為=どうして、なぜ
平成二十四年六月 光琇
摂津峡は大阪府高槻市の芥川上流に広がる渓谷です。北摂随一の景勝地とされ、約4kmにわたって、奇岩、断崖、滝などが続いており、渓流に沿ってハイキング・コースが整備されています。芥川は上流部に市街地がないため常に碧水(青緑の澄んだ水)を湛えています。また瀬と淵が変化に富んでいることから川魚の種類も多く、近くの「アクアビア」で川魚をはじめ生き物たちの生態を知ることができます。また摂津峡は桜や紅葉の名所としても広く知られており、まさに自然美の宝庫といえます。
渓谷の下流地点には桜公園があり、その名の通り春になると一面に桜が咲き誇り、花見客で賑わいます。公園にはステージや子供たちの遊具も設置されているので、幅広い年代の人たちに人気があります。
意訳 夕暮れ時の何となくひっそりした雰囲気の中、雨上がりのアシのしげる水際は蛍の舞う姿がなまめかしい。なぜ風の中で短い命を燃やしてそんなに点滅するのか。野暮なことを聞いてはいけない。これは、月下の求愛行為であることを知らないのか。