◇愛宕念仏寺
◇天龍寺懐古
◇石山寺梅景
◇尋石山寺懐紫式部
◇晩秋真如堂
◇平等院春景
◇東寺夜景
◇永源寺
◇北野天満宮
◇比叡山延暦寺
◇銀閣寺
◇光明寺紅葉燃
愛宕念仏寺の愛宕は「あたご」ではなく「おたぎ」と読みます。嵐山からバスに乗ってさらに北方に坂道を登ったところにあります。帰りは、下りの参道を通って紅葉を撮影しながら、1時間ほど歩いて嵐山に到着しました。嵐山は紅葉のシーズンであったため、人が歩道からはみ出るほどの混雑でしたが、愛宕念仏寺や参道はそれほどではありませんでした。
この寺は、戦後台風被害により廃寺となっていましたが、昭和55年から10年間かけて、山門の復元修理をはじめ、境内全域の本格的な復興事業が行われました。この時、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢(お釈迦様の弟子たち)の石像で充満させたいとの思いで、一般の参拝者自らの手で彫られた1200躰が、運び込まれました。豊かな表情で居並ぶ羅漢は、訪れる人々の心を和ませてくれることから、この寺は「癒しの寺」として親しまれています。
洛北秋深古佛堂 洛北の秋は深し 古仏堂
小丘紅樹弄風光 小丘の紅樹 風光を弄す
千餘羅漢慈顔在 千余の羅漢 慈顔在り
遮断紅塵立夕陽 紅塵を遮断して 夕陽に立つ
令和三年十二月 光琇
意訳 京都洛北にある愛宕(おたぎ)念仏寺の秋が深まり、小さな丘の上の楓の紅葉が日の光をきらめかしている。その背後に、千躰余りの石仏の羅漢が慈悲深い顔つきで、人間世界の穢れを隔てて夕陽を浴びて林立している。
天龍寺は、京都市の嵯峨にある臨済宗の禅刹です。吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓疎石を開山として、1339年に創建しました。後醍醐天皇は、北条氏の支配する鎌倉幕府を滅ぼして建武の中興を行いましたが、その後、尊氏は北朝を擁立して後醍醐天皇による南朝と対立する状態となりました。「・・・・・身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」というのが後醍醐天皇の遺言です。
境内の中央には曹源池という大きな池があり、その周りに大方丈や書院などの建物と望京の丘などが配されています。大方丈から曹源池見渡すと、背景には、大堰川を隔てた嵐山や西に位置する亀山を望めます。嵐山や渡月橋、亀山公園なども、かつては天龍寺の境内であったようですが、創建以来八回の火災に見舞われ、今の境内の面積は当初の1/10になったといわれています。
嵯峨禪刹隔塵寰 嵯峨の禅刹 塵寰を隔つ
獨立池頭暗涙潸 独り池頭に立てば 暗涙潸たり
可憫南朝千載恨 憫む可し 南朝 千載の恨み
空懐青史望嵐山 空しく青史を懐い 嵐山を望む
(註一) 池頭=曹源池のほとりをさす
(註二) 潸たり=涙がはらはらと流れるさま
令和三年四月 光琇
意訳 京都嵯峨にある禅刹(天龍寺)は、都会の喧騒から隔絶された空間であり、境内の曹源池のほとりにひとり立つと、人知れず涙があふれてくる。南朝は、足利尊氏が擁立する北朝と対立して結局没落した。後醍醐天皇の尊氏への恨みは如何ばかりであったろうか。そんな歴史の1ページを懐いながら嵐山を望んでいる。
石山寺は大津市南の瀬田川の畔の丘陵地にあります。その丘陵地は、名前の通り巨石が散在しており、広い境内には本堂、多宝塔など数十の堂塔があります。四季の花々や紅葉、また中秋の名月などを楽しむことができるお寺です。
早春は、梅と蝋梅のシーズンですが、今年は疫病の蔓延による外出の自粛や入国制限の影響でしょうか、人影が殆どありませんでした。訪問時期が少し早かったのかもしれません。それでも梅の開花が始まっており、梅園などは紅と白とで彩られていました。
梅の色を、艶やかに「紅色の唇を散らしたようだ」と表現してみましたが、お寺の雰囲気に適切な表現だったでしょうか。
驟暖漸催江上春 驟暖 漸く催す 江上の春
東風破蕾梅枝新 東風 蕾を破りて 梅枝新たなり
石山古刹無人訪 石山の古刹 人の訪う無く
香気紛紛散絳唇 香気紛々として絳唇を散ず
(註) 絳唇=紅色の唇
令和三年一月 光琇
意訳 急に暖かくなり瀬田川の畔は春めいてきた。春風は梅の蕾を開かせて枝ぶりが新鮮だ。川横の丘陵地の石山寺は、人影がなくひっそりしており、梅は香りを放ち、景色は紅色の唇を散らしたようだ。
石山寺は、琵琶湖唯一の流出河川である瀬田川右岸側(西岸側)の小高い斜面に位置しています。本堂は滋賀県最古の木造建築です。内陣は平安中期に建立され、外陣は淀殿により修補されました。四季折々の花や紅葉が参拝者を楽しませてくれます。石山寺に訪れたのは12月の初旬でしたが、まだ紅葉が残っており、晩秋を感じさせてくれました。
丘の頂上部には、紫式部ゆかりの建物が散在しており、本堂の一角には「源氏の間」があります。今を去る約千年の昔、寛弘元年8月15夜に紫式部がこの部屋に参籠して、前方の金勝山より昇る中秋の名月が湖面に映える美しい景色に打たれ、「源氏物語」を起筆したと伝えられています。室内には、紫式部の等身大の像があります。
なお、承句の下3字「月蒼蒼」は、釈宗泐の七言絶句「暑夜」の承句「開門高樹月蒼蒼」より拝借しました。釈宗泐は、地上の暑さと天上の冷ややかさを対比するために「月蒼蒼」という詩語を用いたのでしょうが、私は式部が見上げたであろう夜空を想像して用いました。
淡靄依微籠水郷 淡靄依微として 水郷に籠み
湖南古刹月蒼蒼 湖南の古刹 月蒼々たり
深閨才媛操觚處 深閨の才媛 觚を操る処
源語千年引興長 源語千年 興を引くこと長し
(註一) 深閨=家の奥深くにある婦人の部屋
(註二) 操觚=文章を作ること(觚は木の札で、昔は
それに文字を書きしるした)
(註三) 源語=源氏物語をさす
令和二年十二月 光琇
・第十三回諸橋轍次博士記念漢詩大会二〇二一 秀作作品
意訳 琵琶湖の南にある石山寺一帯は幽かにもやがかかり、月が青々と輝いている。寺の本堂の奥まった部屋では、才媛紫式部が源氏物語を執筆している。その大作は、千年もの長きにわたって人々の興味を引いてやまない。
真如堂は、正式には鈴聲真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺です。984年、比叡山の戒算上人により開創し、1693年に京都市左京区の高台に移されました。
秋には、広い境内は紅葉に彩られます。春には桜が美しく、一年を通じて落ち着いた雰囲気を醸し出しています。晩秋に数人のグループで訪れた時には、紅葉真っ盛りで多くの人でごった返していました。
獨訪楓林上小丘 独り楓林を訪い 小丘に上れば
如燃錦繍染池頭 燃ゆるが如き錦繍 池頭を染む
穿天層塔斜陽淡 天を穿つ層塔 斜陽に淡し
坐愛洛東山寺秋 坐ろに愛す 洛東 山寺の秋
令和元年十二月 光琇
・第三十五回国民文化祭・みやざき二〇二〇 秀作賞作品
意訳 秋の楓を見ようとして一人で丘に上ると、錦織と見まがう燃えるような紅葉が池の周りを染めている。三重の塔が空に向かって聳え、淡い夕陽を浴びて美しい。やはり、都の洛東に鎮座する秋の真如堂は人を引きつけてやまない。
平等院は宇治市の宇治川のほとりにある寺院で、古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。院内の鳳凰堂は十円硬貨に描かれており、大池越しに見る鳳凰堂は浄土の雰囲気を醸し出しています。
平等院は藤原道長が源重信の別荘をその夫人から譲り受け、藤原頼道が1052年に寺院に改めました。これが平等院の始まりで、開山は小野道風の孫の明尊です。5月の初旬に訪れた時には藤やサツキが満開で、千年の時を経た今も美しい庭園や建物は訪れた人を楽しませてくれます。
宇治江頭細雨中 宇治の江頭 細雨の中
紫藤滿架淡春風 紫藤満架 春風に淡し
鳳凰堂構妙姿凛 鳳凰の堂構 妙姿凛として
千載悠悠映水紅 千載悠々 水に映じて紅なり
令和元年五月 光琇
意訳 宇治川のほとりの平等院の境内、霧雨の中で淡い紫色の藤が棚いっぱいに咲き誇り春風にそよいでいる。鳳凰堂は左右対称の構造美が素晴らしく、その美しい紅色を千年にわたって前の水に映しこんでいる。
春の桜の時期、東寺がライトアップされ、五重塔が満開の桜の中で輝きます。私が4月初めに訪れた時は、シャッターを押すのに苦労するほどの花冷えの夜でした。しかし、苦労のかいあって、何枚かきれいな写真を撮ることができました。
桓武天皇が794年に平安京に都を遷されたときに、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。東寺はもとの場所にそのまま残っていて一級史跡に指定されています。嵯峨天皇は、唐から真言密教を授かって帰国した空海(弘法大師)に、その教えを広める拠点として東寺を与えました。大師はその後、高野山を自らの修禅の場として開かれましたが、そこで得られた智慧を他利行として東寺で実践されました。
日暮洛南春気香 日暮の洛南 春気香し
千秋古刹映斜陽 千秋の古刹 斜陽に映ず
大師心志鐘聲裏 大師の心志 鐘声の裏
宝地伽藍放佛光 宝地 伽藍 仏光を放つ
(註) 大師=弘法大師をさす
平成三一年四月 光琇
意訳 日暮れの京都洛南は春の香りが漂い、千年の古刹である東寺に夕陽が照り映えている。やがてライトアップされると、弘法大師の思いが鐘の音にのって宝池も伽藍も仏様の後光を放っているようだ。
永源寺は、東近江市にある臨済宗永源寺派大本山です。すぐ横を琵琶湖にそそぐ愛知川が流れています。室町時代のはじめ康安元年(1361年)に近江の領主佐々木氏頼が寂室元光禅師の高徳を慕い、この地に伽藍を創建し、禅師を迎えて開山されました。春の新緑から夏の深緑を経て晩秋の紅葉へと移ろう季節の色彩変化が美しい禅刹です。
11月の下旬に訪れた時には、紅葉のピークは過ぎていましたが、総門に至る石段の横に刻まれた16羅漢の石仏や白滝、落葉の絨毯などが荘厳な雰囲気を醸し出していました。読経・座禅・法話・食作法・作務等を通じて自己研鑽を行う研修道場もあり、5名以上の予約制になっています。
湖東禅刹碧江隈 湖東の禅刹 碧江の隈
石佛成群岸壁開 石仏 群を成して 岸壁に開く
風砕飛泉披白布 風は飛泉を砕き 白布を披き
紅楓一葉点青苔 紅楓一葉 青苔に点ず
(註一) 碧江=青々とした川
(註二) 飛泉=滝
平成二十八年十一月 光琇
意訳 琵琶湖の湖東の禅寺である永源寺は、青々と流れる川の横にあり、いくつかの石仏が岸壁に坐している。風が滝の水に吹き、水しぶきが膨らんで白い布を広げたようだ。そして、赤い楓の葉が一枚青い苔に落ちて、色の対照をなしている。
京洛殘寒細雨中 京洛は残寒 細雨の中
梅香破蕾入東風 梅香 蕾破りて東風に入る
可憐腸断西遷配 憐れむべし 腸断 西遷の配
今就天神照梵宮 今天神と就りて 梵宮を照らす
(註一) 西遷配=菅原道真の大宰府への左遷をさす
(註二) 梵宮=清浄なお宮=北野天満宮
平成二十七年三月 光琇
意訳 京都は細かい雨が降っており、まだ寒さが残っている。そんな中、梅の香りが蕾を破って春の東風にのって流れている。道真公の大宰府への左遷は正に断腸の思いであったろう。今は天神様となって北野天満宮を照らしているが。
北野天満宮は、菅原道真公(菅公)をお祀りした京都市にある神宮で、創建は947年です。菅公は、幼少の頃より情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなどの才能を発揮しました。どんどん出世して右大臣にまで上りつめますが、それが藤原氏の妬みを買い、冤罪で突如大宰府に左遷されました。死後に無実が証明され、菅公は「学問の神様」「至誠の神様」となって、今も人々の信仰を集めています。
北野天満宮を訪問したのは2月末で、小雨のぱらつく寒い日でしたが、合格祈願の受験生で賑わっていました。約2万坪の境内には、50種1500本の梅の木が所狭しと植えられており、まだ3分咲きといったところでした。左遷が決まり京都を離れる際の菅公の歌が、「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」です。私の詩では、「梅香が東風に入る」としましたが、大宰府まで届いたでしょうか。
延暦寺は、京都市と大津市にまたがる標高848mの比叡山全域を境内とする150ほどの堂塔の総称です。9世紀初めに最澄が開き、日本天台宗の本山寺院になっています。最澄の教えの根本は、「個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる」ということのようです。後世、このような教えの基に、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮といった高僧が延暦寺を修行の場に選びました。延暦寺は、1994年に古都京都の文化財としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。
比叡山に涼みに行ったのは、夏の真っ盛りでした。京阪出町柳駅から叡山電鉄で八瀬比叡山口駅まで行き、そこからケーブルカーとロープウェイを乗り継いで山頂に着きました。根本中堂までの山道は日射がきつく、木陰を探しながら歩きました。中堂には1200年間守り継がれてきた「不滅の法灯」が光を放っており、その厳かな雰囲気の中で心の中まですっかり涼しくなりました。
萬樹森森風自香 万樹森々 風自ずから香し
緑陰深處陟中堂 緑陰深き処 中堂に陟る
法灯不滅一隅照 法灯不滅にして 一隅を照らし
千載霊峰間覚涼 千載の霊峰に 間涼を覚ゆ
(註) 中堂=根本中堂をさす
平成二十五年九月 光琇
意訳 樹木がこんもりと生い茂り、風が木の香りを運んでくる。緑陰が深いところに根本中堂があり、そこに入っていった。中では不滅の法灯がともり,隅々まで照らしている。千年の霊峰比叡山でしばらく涼しい思いをした。
銀閣寺は俗称で、正しくは東山慈照寺といいます。室町幕府8代将軍足利義政公は政局のごたごたに嫌気をさして隠遁生活に入るために、早々と子の義尚に将軍職を譲りました。そして1482年に山荘東山殿の造営を始め、これが銀閣寺の発祥となりました。東山殿は、義政公を中心に形成された東山文化の発祥地ですが、これに禅宗文化が結合したといわれています。苔生した東山のふもとにひっそりとたたずむ姿は、金ピカの金閣寺と全く異なり、辺り一面にわび・さびの雰囲気を醸し出しています。
京都・蹴上の南禅寺を尋ね、昼食に湯豆腐を食べて帰る予定だったのですが、店員に「銀閣寺まで歩いて1時間以内で行けるか」と聞いたところ、「40分ぐらいで行ける」という返事でした。意外に近かったので急遽予定を変更して、疏水沿いの哲学の道を通って銀閣寺まで歩き、気持ちのいい散歩ができました。
煙霞擁閣隔塵寰 煙霞閣を擁し 塵寰を隔つ
慈雨濡苔禪刹閑 慈雨苔を濡らし 禅刹閑なり
亂世幽居風雅跡 乱世に幽居したる 風雅の跡
將軍殘夢滿東山 将軍の残夢 東山に満つ
(註一) 煙霞=もやにかすむ景色
(註二) 塵寰=俗世間
(註三) 将軍=室町幕府足利八代将軍義政をさす
平成二十四年四月 光琇
意訳 銀閣寺は、もやに霞む景色に包まれて俗世間と隔絶している。恵みの雨が苔を濡らしてこの禅刹を一層閑寂にしている。乱世に嫌気をさして隠遁してしまった将軍義政の風雅な生活痕跡ともいうべき銀閣寺から、彼の残夢が東山全体に広がっている。
光明寺は京都府長岡京市にある寺院です。法然上人を慕い帰依した弟子の蓮生法師が1198年に念仏三味堂を建立したのが始まりといわれています。熊谷蓮生(熊谷次郎直実)は源平の戦いの明け暮れに疲れ果て、積もる罪状を償い極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねました。その時に上人から「どんなに罪は深くとも、一心に念仏を唱えれば救われる」と言われ、そのありがたい教えに歓喜し、その後ここに寺を建て、法然上人を開山第一世と仰ぎ、自らは二世となったそうです。
11月末に訪れた時は紅葉の真っ盛りで、参道を覆い尽くす紅葉の隙間からこぼれ落ちる夕陽と薄い葉の透き通った紅色が交錯し、光の芸術のようでした。また参道には落葉がふわふわした紅い絨毯を敷き詰めていました。青葉が紅葉となり、紅葉が落葉してやがては土にかえる無常の哲理に、しばししんみりした気持ちになりました。
秋風清冷寺庭鮮 秋風清冷 寺庭鮮やかに
紅映残陽染暮天 紅は残陽に映じ 暮天を染む
黙座低頭観落葉 黙座低頭し 落葉を観れば
無常哲理独蕭然 無常の哲理に 独り蕭然たり
(註一) 光明寺=西山浄土宗総本山、京都府長岡京市
(註二) 哲理=哲学上の道理
(註三) 蕭然=がらんとしてもの寂しいさま
平成二十三年十二月 光琇
意訳 清らかな秋風を受けて光明寺の庭は鮮やかに手入れされている。(石畳を)覆うような楓並木の紅葉が夕日に映えて空を染めているようだ。黙って座り首を垂れて落葉に目を落とすと、今まで輝いていた紅葉の末路に無常を感じ、何となく寂しい気持ちがする。