古城・古跡

姫路城
姫路城

◇馬籠宿雪景

◇訪松下村塾跡

◇彦根城玄宮園其二

◇仰鶴城懐白虎隊

◇松山城

◇京都御所春来

◇平城宮跡

◇八紘一宇塔

◇大阪城梅林

◇一乗谷懐古

◇松江城月下納涼

◇熊野古道

◇辰鼓楼

 ◇伏見懐古

◇高槻城址

◇二条城

姫路城新粧

天空竹田城

◇彦根城玄宮園



馬籠宿雪景

馬籠宿は、岐阜県中津川市を通る中山道の一部です。中山道は、江戸時代初期に開通した五街道の一つで、京都と江戸を結んでいます。中山道のうち馬籠宿のある区間は木曽路と呼ばれ、今も江戸時代の情景を色濃く残しています。

 馬籠宿の特徴は、石畳が敷かれた坂道の沿道に古風な宿場や店舗が並んでいることです。中央アルプスを望めるという景観に恵まれていることに加えて、この地で生まれ育った島崎藤村の歴史や伝統文化が、地元の人々によって守られて今に至っています。

凛冽寒中暁色開 凛冽(りんれつ)たる寒中(かんちゅう) (ぎょう)(しょく)(ひら)

雪埋石磴白皚皚 (ゆき)石磴(せきとう)(うず)(はく)(がい)

往時髣髴街頭宿 往時(おうじ) 髣髴(ほうふつ)たり 街頭(がいとう)宿(やど)

妙味津津求句回 妙味(みょうみ) 津々(しんしん) ()(もと)めて(めぐ)

(註一) 凛冽=寒さの極度の厳しいさま

(註二) 石磴=石だたみの坂道

            令和六年二月 光琇


意訳 厳しい寒さの中、早朝の景色が開けると、石畳の坂道は雪に埋まって真っ白だ。道端の宿屋は、(参勤交代の侍たちが出入りしたであろう)当時の様相を髣髴とさせる。言葉にするのが難しいほどの味わいがあり、何とか句にしようとして歩き回った。


訪松下村塾跡-松下村塾の跡を訪ぬー

 松下村塾は、幕末に長州萩城下にあった私塾であり、若き吉田松陰が叔父玉木文之進から塾長を引き継いで主宰しました。松陰先生は、人としてどう生きるべきかという高い志を先ず定め、それに向かって学問を修め実践していくことを強く求めました。塾の建物は萩市に現存しています。敷地内には松陰神社もあり、その参道には「学びの道」という名で松陰語録の碑が道の両脇に建ち並んでいます。

 松陰先生指導の塾生の多くは、教えを受け継いで、明治維新の扉をこじ開けただけではなく、後の近代化・工業化の過程で重要な役割を担いました。初代内閣総理大臣である伊藤博文、第三代・第九代内閣総理大臣である山縣有朋をはじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允(桂小五郎)たちもこの塾の卒業生です。

江邊寂寞古公堂 (こう)(へん)寂寞(せきばく)たり ()公堂(こうどう)

曾学青衿豈可忘 (かつ)(まな)(せい)(きん) ()(わす)()けんや

他日雄飛遍天下 他日(たじつ) (ゆう)()天下(てんか)(あまね)

維新成就姓名揚 維新(いしん) 成就(じょうじゅ)姓名(せいめい)(あが)

(註) 公堂=学校

               令和五年十月  光琇                              


意訳 (松下村塾は萩市の松本)川のほとりにひっそりと建っている昔の学校だ。かつて青年たちがここで学んだことをどうして忘れることができようか。彼らはその後、国のいたるところで大きな力をふるい明治維新を成功させ名を上げたのである。


彦根城玄宮園其二

江州城郭月明天 江州(こうしゅう)城郭(じょうかく) (げつ)(めい)(てん)

蟲語啾啾轉可憐 虫語(ちゅうご) 啾啾(しゅうしゅう) (うた)(あわ)れむ()

何処弾琴幽韻響 何処(いずこ)(だん)(きん)(ゆう)(いん)(ひび)

両聲相和遶池邊 両声(りょうせい) (あい)()して ()(へん)(めぐ)

(註) 啾啾=鳥・虫などが細い声でなく声の形容

          令和五年八月  光琇

意訳 滋賀県のお城(彦根城)の上には明るい月が上がっている。(玄宮園では)秋の虫がか細い声で鳴いており感にたえない。どこからともなく琴を弾くかすかな音が聞こえる。それが虫の音と調和して池をめぐり、何とも言えない雰囲気を漂わせている。

 この詩は、11年前にふらっと彦根城に足を運んだ時の拙作をリメイクしたものです。その時の詩は、漢詩を始めてからちょうど1年目のものでしたが、何と「国民文化祭・やまなし2013」の漢詩の部で秀作賞をいただき、韮崎市での表彰式にも参加しました。たった1年の経験で入選し「漢詩なんて軽いものだ」とその時は思ったのですが、それは大間違いで、単なるビギナーズ・ラックでした。それ以降はほとんどお呼びがかからず、作詩を初めて10年目ぐらいからポツポツと入選するようになりました。やはり巷間で言われているように、まともな詩を作れるようになるには10年ぐらいかかるようです。

以前の詩を以下に示しますが、両者を比べてみると、何となくそちらの方が良いような気がします。あまり成長していないということでしょうか。湖北晩涼黄菊時、古城尚𠑊格高姿、仰観層閣映弦月、玉笛蟲聲風遶池。



仰鶴城懐白虎隊

1968年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発し、会津藩は江戸幕府を支えて活動してきたため、新政府軍の仇敵となり攻め込まれました。これが会津戦争です。十代の少年たちで構成される白虎隊は予備兵力でしたが、青年兵が出払っていたため、前線に進軍しました。しかし、会津軍の劣勢はいかんともし難く、白虎隊は飯盛山に落ち延びましたが、鶴ヶ城に砲煙が上がるのを見て、戸ノ口堰洞門を通り抜けて20名が自刃しました。ただ一人一命をとりとめた飯沼貞吉は生き証人として当時の様子を伝えています。飯盛山からは、鶴ヶ城は点のようにしか見えないので、落城を見たというのは誤認だったかもしれません。しかし、落城の如何にかかわらず、敵につかまり生き恥をさらすよりは死を選んだというのが正しいようです。

 鶴ヶ城は、1593年に蒲生氏郷が建立した東日本で初の本格的な天守閣です。1868年の新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐え、難攻不落の名城として知られるようになりました。会津藩は、ボロボロになった城の修復費用を賄えないため、明治初期にすべての建物が取り壊されました。1965年に天守閣が再建されて、内部は鶴ヶ城の歴史展示館のようになっています。2011年には、幕末当時の赤瓦にふき替えられました。赤瓦は雪に強いといわれており、鶴ヶ城以外で赤瓦のお城はありません。

往昔鶴城焔煙 往昔おうせき かくじょうえんえんあが

少年落涙斃清川 少年(しょうねん) 落涙(らくるい)清川(せいせん)(たお)

新装高閣摩天起 新装(しんそう)高閣(こうかく) (てん)()して()

二十忠魂千古傳 二十(にじゅう)(ちゅう)(こん) (せん)()(つた)

(註) 潸然=涙がはらはらと流れるさま

           令和五年七月  光琇


意訳 かつて鶴ヶ城に焔と煙のあがるのを見て、白虎隊の少年たちは涙を流し(飯盛山の中腹の)清川を通って自刃した。再建された天守閣は天に触れるほど高く聳え、二十人の少年たちの忠魂をいついつまでも先の世に伝えてくれることだろう。


松山城

 雨餘山上緑芊芊 雨余(うよ)山上(さんじょう) (みどり)(せん)々たり

高閣玲瓏對碧天 高閣(こうかく) 玲瓏(れいろう)にして 碧天(へきてん)(たい)

眼下街坊春靄淡 眼下(がんか)街坊(がいぼう) (しゅん)(あい)(あわ)

登樓遙望往来船 (ろう)(のぼ)りて(はる)かに(のぞ)往来(おうらい)(ふね)

(註一) 芊芊=青々と茂るさま

(註二) 玲瓏=冷たくさえてかがやくさま

           令和五年五月  光琇 

 松山城は、松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、すそ野に二の丸、三の丸があります。山頂といっても、平坦なちょっと高い丘陵で、そこに本丸広場が広がっています。そこまでは歩いても登れますが、ロープウェイとリフトも整備されており、容易にアクセスできます。本丸広場は緑がいっぱいで、広場の奥に天守が美しい姿を呈しています。勝山の標高を加えた天守の高さは、161mで、これは現存12天守の平山城の中で最も高いそうです。

本丸広場からは松山の市街地を俯瞰することができます。詩では、お城に上ったことになっていますが、実はツアーの集合時刻が迫っていたので、広場から見上げただけで引き返しました。城に上ると、瀬戸内海が見渡せると思いますが、船の航行まで見えるかどうかはわかりません。再度訪問した時に確認したいと思います。


意訳 雨上がりの高台(本丸広場)に上ると、木々が青々と茂っている。その奥で、松山城の天守閣が青空の下で冴え輝いている。広場から俯瞰すると、松山の街並みが春がすみがかかってぼんやりと見える。城に上ると、はるか瀬戸内海を見渡すことができ、航行している船を眺めてみた。


京都御所春来

京都御所は、京都市中心部の約65ヘクタールに及ぶ京都御苑の中に在り、明治になるまでそこで天皇がお住まいになられ、また公務をされていました。京都御所の起源は、桓武天皇が794年に平安京に都を移されたのが始まりですが、その場所は現在とは異なります。現在の御所は、光厳天皇が1331年に即位されてからになります。したがって、1869年に明治天皇が東京に移られるまでの約500年間、天皇がおられたことなります。

御所内の建物は、幾度となく火災にあってその都度再建されました。現在の紫宸殿、清涼殿などの御殿は1855年に再建されたものです。このうちの紫宸殿は、御所内で最も格式の高い正殿であり、明治・大正・昭和の三代の天皇の即位礼はここで行われました。また、平安時代の紫宸殿は、寝殿造りの原形として多くの貴族住宅に影響を与えました。

 天皇が東京に移られるに際して、京都市民は「ちょっと東京に行幸される」という感覚だったのでしょうか、いまだに、「またすぐに戻ってこられる」と言う市民もいます。しかし実際は、当時の市民の落胆は大きかったのでしょう、その代償としていくつかの投資がなされました。その一つが、京都市の予算の十数倍をかけた琵琶湖疎水の建設とそれを利用した舟運振興や水力発電です。発電に関しては、その電力を利用して京都に新しい工場が生まれ、またわが国で初めて路面電車が走ることになりました。なつかしい歴史です。

悠久古都春気催 悠久(ゆうきゅう)古都(こと) (しゅん)()(もよお)

平安禁苑獨徘徊 平安(へいあん)(きん)(えん) (ひと)徘徊(はいかい)

昔時遷幸君知否 昔時(せきじ)遷幸(せんこう) (きみ) ()るや(いな)

無主紅梅不忘開 (あるじ)()くも 紅梅(こうばい) (ひら)くを(わす)れず

(註) 遷幸=天子が宮城を出て、よそに移ること

               令和四年三月  光琇


意訳 悠久の古都京都は春の気配となり、平安時代の宮廷を彷彿させる御所を一人でうろつき回った。天皇陛下がすでに東京に移られたことを、あなたは知ってか知っているのだろうか。主のいない庭に今年も紅梅が忘れずに開き、春の到来を知らせてくれている。


平城旧跡

 平城京は、約1300年前に今の奈良県北部に建設された都で、その北端中央に天皇の住まいである内裏(だいり)や官公庁が集まる130ヘクタールの平城宮がありました。しかし平城京が都であったのは、710年から785年までの75年間であり、その後都は長岡京に、さらにそこから平安京に移りました。平城宮は急にさびれて長らく田んぼとなり、平城宮の存在が明らかになるまでに1000年を要したようです。そして、戦後にやっと発掘調査が始まり、1998年に朱雀門と東院庭園が、2010年に第一次大極殿が復原されました。

 年明け早々に平城宮跡に行きました。建物以外の部分は広場のままになっています。コンピュータ・グラフィックスで映し出された当時の街並みを見ると、その壮大さに驚かされます。こんな立派な街や多くの建物が1000年もの間忘れ去られていたというのはさびしいことです。

青草萋萋故帝宮 青草(せいそう) 萋萋(せいせい)たり ()帝宮(ていきゅう)

街坊大路久荒叢 街坊(がいぼう) 大路(おおじ) (ひさ)しく(こう)(そう)

宛如夢幻朱樓建 (あたか)夢幻(むげん)(ごと) (しゅ)(ろう)()

憑弔古都斜照中 古都(こと)(ひょう)(ちょう) (しゃ)(しょう)(うち)

(註一) 街坊=まち、市街

(註二) 憑弔=古跡などに立ち寄って昔しのぶ

             令和四年一月 光琇


意訳 平城宮の跡地は、現在芝生で覆われた広場となっている。当時の建物や大通りは、長らく草むらの下に埋もれたままになっていた。今こうして、当時の朱雀門や大極殿などが復原され、夕陽の中で千余年前の奈良の都をしのぶことができる。


八紘一宇塔

天孫降臨の地である宮崎市の平和台公園の小丘の上に、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)が立っています。現在の名称は、平和の塔、また八紘一宇の塔ともいわれ、神武天皇の即位紀元(皇紀)2600年にあたる1940年に建立されました。塔の胴体部には、秩父宮雍仁親王の揮毫による八紘一宇という碑文が刻まれています。これは、「八紘(あめのした=全世界))を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」という意味で、日本書紀に神武天皇の言葉として記されているものです。

この碑文は、終戦直後の1946年にGHQの命令により除去されました。皇統を廃止したかったからなのか、大東亜共栄圏の想起を危惧したからだったのか、マッカーサーに聞いてみないとその理由はわかりません。しかしこの碑文は、当時、宮崎県職員により密かに運び出されて保存されており、1965年に復元しました。復元にあたっては、革新政党や労働組合が抗議に訪れましたが、県観光協会会長が追い返したそうです。わが国の左翼の連中は今も昔も、反日活動となるとなぜか団結して燃え上がるようですね。

尋來皇統降臨地 (たず)()たり 皇統(こうとう)降臨(こうりん)()

石塔亭亭嚴碧天 石塔(せきとう) (てい) 碧天(へきてん)(げん)たり

銘刻変遷人識否 (めい)(こく)変遷(へんせん) (ひと)()るや(いな)

昭和史実向誰伝 昭和(しょうわ)史実(しじつ) (たれ)()かって(つた)

        ん

(註一) 降臨=神が天から地上におりてくること

(註二) 亭々=樹木や塔がすっくとたったさま

(註三) 銘刻=金石に文字をほりつけること、またそ

       の文字

               令和三年五月  光琇

 意訳 天孫降臨の地である宮崎にはるばるやってくると、(平和台公園に)石の塔が空高く厳かな姿を呈している。この塔に刻まれた「八紘一宇」の碑文の変遷(GHQにより除去されその後復元した)は世に知られているのだろうか。この昭和の史実をいったい誰に伝えたらいいのだろう。



大阪城梅林

意訳 大阪城は、淀川のほとりに荘厳な姿を呈しており、お濠では春風が穏やかに梅の幽香を運んでくる。遠くで鴬が鳴いているが、どこにいるのかよくわからない。その声色は、天上から笛の音が聞こえてくるようだ。

傑閣荘厳澱水邊 傑閣(けつかく) 荘厳(そうごん)たり (でん)(すい)(ほとり)

渡濠風穩暗香傳 (ほり)(わた)(かぜ)(おだ)かに (あん)(こう)(つた)

遠聞鶯語不知處 (とお)()鴬語(おうご) (ところ)()らず

宛似簧音下九天 (あたか) 簧音(こういん)九天(きゅうてん)より(くだ)るに()たり

(註一) 澱水=淀川をさす

(註二) 簧音=笛の音

(註三) 九天=天の最も高いところ、大空

           令和三年二月  光琇


 大阪城は都心のど真ん中に位置し、天守閣は外観五層、内部八階建の歴史博物館となっています。天守閣の周りは都市公園として整備されており、緑が乏しい都心の貴重なオアシスとなっています。公園全体は緑あふれる空間を形成しており、園内の梅林や西の丸庭園は四季折々の装いを見せてくれます。二月の中旬、一瞬暖かくなったので、梅林目的で訪れると、疫病禍中にもかかわらず結構な人出でした。大阪城の真正面で高校生活を送りましたが、当時は受験勉強でお城を眺めているような余裕はありませんでした。

 なお、この詩の転句・結句は、以下の菅茶山の七言絶句「遊芳野」の転句・結句をもじりました。一目千株花盡開(一目千株 花尽く開き)、満眼唯見白皚皚(満眼唯だ見る 白皚皚)、近聞人語不知處(近く人語を聞けども処を知らず)、聲自香雲団裏来(声は香雲団裏より来る)


一乗谷懐古

一乗谷は、福井市の南東約10kmのところにあります。戦国の末期、越前国の守護となった朝倉孝景は、一乗谷に一族の居館や寺院を配し、その盛況は小京都と称せられました。一世紀にわたって文化の華を咲かせましたが、義景の代に織田信長に攻め滅ぼされました。

それ以来、寂しい山村となりましたが、近年、武家屋敷、寺院、町屋、職人屋敷や道路に至まで街並みが発掘・再現され、国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定されています。私がここを訪れた6月の夕刻には、流鏑馬(やぶさめ)が披露され、さらにその後には一斉に星空ランタンがあげられました。

往昔栄華識者誰 往昔(おうせき)栄華(えいが) ()(もの)(たれ)

朝家末路使人悲 朝家(ちょうけ)末路(まつろ) (ひと)をして(かな)しましむ

獨尋痕跡空憑弔 (ひと)痕跡(こんせき)(たず)ねて (むな)しく憑弔(ひょうちょう)

啼血聲哀薄暮時 (てい)(けつ)(こえ)(かな)薄暮(はくぼ)(とき)

(註一) 朝家=朝倉家をさす

(註二) 憑弔=古跡などに立ち寄って昔をしのぶ

(註三) 啼血=ホトトギスのなき声の悲痛なさまのたとえ

               令和元年六月   光琇

・令和三年度「扶桑風韻」漢詩大会第二十号 入選作品


意訳 かつての朝倉家の栄華を誰が知ろうか。同家の末路は人を悲しませる。独りその痕跡をたどって昔をしのんでも空しく、血を吐くような哀しいホトトギスの鳴き声が聞こえてくるだけである。


松江城月下納涼

 

 松江城は島根県松江市にあり、宍道湖の東部に築かれた湖城で、国宝に指定されています。山陰地方では唯一の現存天守です。天守は高台に鎮座し、城域の外側は濠で囲まれています。濠は汽水域であるため豊かな生物相を形成しており、水上には小さな遊覧船が行き来しています。

 松江城を国宝にしようという動きは昭和30年代からあったようですが、国宝に指定されたのは、はるか後の2015年です。それまでの国宝城は、犬山城、彦根城、姫路城の4城でしたが、これに松江城が加わって国宝城は5城となりました。

晩晴曳杖大湖頭 (ばん)(せい) (つえ)()大湖(たいこ)(ほとり)

層閣凌霄儼古丘 層閣(そうかく) (そら)(しの)ぎて 古丘(こきゅう)(げん)たり

濠水風生消午熱 (ごう)(すい) (かぜ)(しょう)じて ()(ねつ)()

半輪月照納涼舟 半輪(はんりん)(つき)()らす 納涼(のうりょう)(ふね)

(註一) 曳杖=杖をついて歩く

(註二) 大湖=宍道湖をさす

              令和元年六月   光琇

意訳 晴れ渡った黄昏時、宍道湖のほとりを散策するとお濠の向こう側の丘上に、空に突き出た天守閣が見える。お濠の水が昼の熱気をさまし、半輪の月が納涼の舟を照らし出している。



熊野古道

 この詩は、以前に作った詩を読み直しているうちにあちこちを修正したくなり、ついに全面的に修正したものです。

 熊野古道にはいくつかのルートがあります。最もポピュラ―なのは、京都・大阪・和歌山・田辺を結ぶ伊勢路~田辺・熊野本宮を結ぶ中辺路(なかへち)です。これ以外に大辺路(おおへち)、小辺路(こへち)、伊勢路、大峯奥駈道などがあり、すべての道は熊野本宮大社に通じています。このうち、中辺路、大辺路、小辺路が「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。

 熊野への参詣は、平安時代中頃から始まり、室町時代まで盛んに行われたようです。そして今でも人気のツアーになっています。

連綿苔徑入幽微 連綿(れんめん)たる苔径(たいけい) 幽微(ゆうび)()

晨旦樹陰行客稀 (しん)(たん)樹陰(じゅいん)行客(こうかく)(まれ)なり

翠靄群峰仙界景 (すい)(あい)(ぐん)(ぽう)仙界(せんかい)(けい)

山光風使人祈 山光(さんこう) 風韻(ふういん) (ひと)をして(いの)らしむ

(註一) 幽微=奥深くて非常にかすかなこと

(註二) 翠靄=青みがかったもや

              平成三一年三月  光琇


意訳 苔むした小道は長く絶えることなく幽かに続いている。まだ朝が早いので木陰には人影がない。青みがかったもやのかかった峰々はまるで仙人の世界のようだ。山の光や風の音の中にいると人は祈らずにはいられなくなる。


辰鼓楼

秋光淡淡暮雲収 秋光(しゅうこう) (たん)()(うん)収まり

坐地聳天辰鼓楼 ()()(てん)(そび)(しん)鼓楼(ころう)

日夜刻時看世變 日夜(にちや)(とき)(きざ)()(へん)()

清姿如画影悠悠 (せい)姿() ()(ごと) (かげ)(ゆう)々たり

         平成三十年十一月  光琇

晨鼓楼は、兵庫県の豊岡市出石町にあり、伝統的建造物群保存地区を代表する建造物です。この楼閣は、もともとは辰の刻(7時から9時)の城主登城を知らせる太鼓をたたくための建造物でしたが、明治初期にオランダ製の機械式大時計が設置され、1881年より現在の姿の時計台となりました。日本最古の時計台とも言われています。2017年には修復工事が行われています。

 10月に、所属するグループの撮影会が出石で催され、撮影テーマはレトロでした。しかし、晨鼓楼のお濠とそのなかを泳ぐ鯉の撮影にかまけていたため、レトロはお預けとなりました。


意訳 暮雲が収まって秋の日の光が街を淡く照らしている。そこでどっしりと地に足をつけて天に向かって聳える辰鼓楼。日夜時を刻んで世の変遷を見守ってきた。そんな清らかな姿は絵に描いたようにゆったりとしてのどかである。


伏見懐古

伏見は酒造りのまちとして全国的に知られています。江戸時代に大阪と伏見の間を行き来していた輸送船は、酒や米などの物品のほか旅行客なども運ぶ重要な交通機関でした。濠川では現在、その輸送船を十石舟、三十石船として遊覧運行しています。

伏見では、寺田屋で1862年に薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件、1866年に伏見奉行による坂本竜馬襲撃事件が発生しています。また1968年には戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いの舞台となりました。しかし、現在は何事もなかったかのように、濠川の堤には柳が青々と茂り、背景には酒蔵が軒を並べています。写真は十石舟が運行する濠川の風景です。桜は散った後ですが、古の風情を今に残しています。

晩春江上獨凭欄 晩春(ばんしゅん)江上(こうじょう) (ひと)(らん)()れば

一片櫻花欲見難 一片(いっぺん)桜花(おうか) ()んと(ほっ)すれど(かた)

懐旋幕末恩讐変 (おもい)(めぐ)幕末(ばくまつ)恩讐(おんしゅう)(へん)

楊柳含怨映水寒 (よう)(りゅう)(うらみ)(ふく)(みず)(えい)じて(さむ)

(註) 幕末恩讐変=寺田屋事件、鳥羽・伏見の戦いなどを

         さす

            平成三十年四月  光琇 


意訳 晩春の濠川のほとり、一人橋の欄干によりかかって、桜の花を見ようとしたのだが、すでに散ってしまってかなわなかった。そんな中、幕末の血なまぐさい政変に思いが到り、何となく水面に映った柳の枝にその怨み籠っているように感じた。


高槻城址

高槻市中心市街地にある高槻城は、1569年に和田惟政が城としての基礎を固め、1573年に高山右近が町屋を城内に取り込んで堅固な城郭を築きました。南の淀川と北の西国街道の間にはさまれて、交通の要衝地という地の利を活かして繁栄したようですが、明治初期の1874年に廃城となり、国鉄東海道線建設のために石垣が使われました。城の痕跡はわずかに残されているだけで、今は4.44haの閑静な公園となっています。高槻城跡という石碑がなければ、ただの公園と思ってしまうかもしれません。

公園内には高山右近像が建てられています。右近と言えば、キリシタン大名として有名です。彼が城主であった時には、領内の住民の多くがキリスト教徒であったようですが、神官・僧侶を迫害し神社・仏閣を破壊しました。その後、秀吉によるバテレン追放令や家康によるキリシタン国外追放令を受けて、右近はマニラに渡り、その直後に64歳で客死しています。

蕭然城址淡煙籠 蕭然(しょうぜん)たる城址(じょうし)(たん)(えん)()

滿目池邊躑躅紅 満目(まんもく) 池辺(ちへん)躑躅(てきちょく)(くれない)なり

四百年来名不朽 四百(よんひゃく)年来(ねんらい) ()()ちず

武人殉教立清風 武人(ぶじん)殉教(じゅんきょう)清風(せいふう)()

(註一) 蕭然=ものさびしいさま

(註二) 躑躅=つつじ

(註三) 武人=キリシタン大名高山右近をさす

          平成二十七年六月  光琇

意訳 もの寂しい城跡にうすもやがかかり、池の周りは見渡す限り紅のバラが咲き誇っている。殉教して400年にわたって名を遺した武人(高山右近)の銅像が立っており、風を受けてすがすがしい。



二条城

二条城は、京都市堀川二条にあります。徳川家康が征夷代将軍になった1603年に完成し、11年に家康は豊臣秀頼とここで接見しています。その時頼もしく成長した秀頼をみて、家康は後顧の憂いを断つために豊臣家をつぶす決意をし、1415年の大坂冬の陣・夏の陣につながったと言われています。そして2世紀半の時を経た1867年、最後の将軍徳川慶喜がこの二条城にて大政奉還を表明しました。二条城はこのように、徳川幕府の始まりと終焉を演出する歴史の舞台となったわけです。

 五層の天守閣がそびえていた時期もあったようですが、現存する本丸御殿(重要文化財)、二の丸御殿(国宝)はいずれも平城です。二の丸御殿のいくつもの大広間には、絢爛豪華な狩野派の障壁画が描かれており、まさに日本版ルーブル美術館のようです。二の丸庭園は特別名勝に指定されており、お城全体は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

春淺東風繞粉牆 (しゅん)(あさ) 東風(とうふう) 粉牆(ふんしょう)(めぐ)

間庭召我以梅香 (かん)(われ)(まね)くに (ばい)(こう)(もっ)てす

千年青史滄桑變 千年(せんねん)青史(せいし) (そう)(そう)(へん)

大政奉還移帝郷 大政(たいせい)奉還(ほうかん) (てい)(きょう)(うつ)

 (註一) 粉牆=白いへい

 (註二) 滄桑の変=世の中の移り変わりが激しいこと

           平成二十七年四月  光琇


意訳 初春の京都、東風が白い塀をめぐり、城内の閑静な庭は梅の香りをもって私を招き入れた。ここ二条城での大政奉還により、1000年続いた武家政治は歴史の幕を閉じ、都も京都から東京に移ることになった。


姫路城新粧

姫路城は白鷺城(しらさぎじょう、はくろじょう)とも呼ばれています。1580年、羽柴秀吉は黒田孝高(官兵衛)の姫路城に入り、翌年に三重の天守を築きました。その後、徳川家康の女婿・池田輝政が石垣などは活かして五重の天守を完成させ、これが現在の姫路城の原形になりました。太平洋戦争などの戦禍を奇跡的に潜り抜け、400年後の今に当時の姿を伝えています。

11月末、小春日和に誘われて、2009年度から始まった平成の大修理の終わった姫路城に足を運びました。修理が終わったとはいえ、足場はまだ残っており、天守内部への登閣はできません。工事が完全に終わるのは、20153月末になります。とはいえ、漆喰壁を真っ白に化粧直しした白鷺はまさに天空に飛び立たんばかりで、国宝・世界遺産の風格を呈していました。

濠水滄滄紅葉鮮 濠水(ごうすい)(そう)紅葉(こうよう)(あざ)やかに

新粧相就清妍 新粧(しんしょう)(あい)()(うたた)清妍(せいけん)なり

層閣経時身未老 層閣(そうかく) (とき)()()(いま)()いず

従雲白鷺舞旻天 (くも)(したが)(はく)()旻天(びんてん)()

(註) 旻天=秋の空

          平成二十六年十二月  光琇


意訳 お堀の水が青々としており、それと対照をなして紅葉が鮮やかだ。姫路城は補修工事がようやく終わって以前よりさっぱりした感じだ。天守閣は時代を経ても古さを感じさせず、雲を伴って白鷺が秋空を舞っているようだ。


天空竹田城

但馬一村秋気清 但馬(たじま)一村(いっそん)秋気(しゅうき)(きよ)

寒空閑坐竹田城 寒空(かんくう)(かん)()竹田(たけだ)(じょう)

宛如虎臥泛雲海 (あたか)(とら)()するが(ごと)雲海(うんかい)(うか)

依旧石垣連宙横 (きゅう)()石垣(せきえん)(ちゅう)(つら)なりて(よこ)

(註) 依旧=昔ながら

            平成二十五年十一月  光琇

 中国語で朗詠 

竹田城は兵庫県朝来市にあります。以前に近くを通ったことがありますが、いつもそのまま通過していました。ところが、2012年の高倉健主演の映画「あなたへ」で雲海に浮かぶ美しい竹田城がスクリーンに映し出されてから、「天空の城」とか「日本のマチュピチュ」と呼ばれ、急に有名になりました。竹田城跡は、虎が伏せているように見えることから「虎臥城」とも呼ばれています。

 11月末の早朝に、竹田城見学バスツアーに参加しましたが、詩に詠った「雲海に泛ぶ」姿を見ることはできませんでした。それを見るためには、冬の早朝に対面の立雲峡に登らなければいけません。また、円山川の川霧が立ち込めるというタイミングにも恵まれる必要があります。ということなので、雲海に浮かぶ竹田城の撮影は何年先になるかわかりません。


意訳 但馬地方の秋の気配は清くさわやかだ。そんな中、竹田城は寒空に向かって静かにどっしりとした姿を呈している。まるで虎が臥したように雲海に浮かび、石垣は空中に連なっているようだ。


彦根城玄宮園

ふらっと彦根城に足を運んだのは残暑厳しい8月の半ばでした。その時に、彦根城主の大名庭園である玄宮園で、9月に虫の音を聞きながら邦楽を楽しむ会があることを知り、9月の夜に再度訪問しました。昼の暑さが引いた夜、ライトアップされた彦根城と玄宮園、そして笛の音と虫の音が見事に調和した世界で時間のたつのを忘れました。

 この詩は「第28回国民文化祭・やまなし2013」の漢詩の部で秀作賞をいただきました。作詩を初めて1年目の詩なので、はっきり言って時期尚早ではありましたが、いただけるものはいただいておこうということで、山梨県韮崎市での表彰式に夫婦で参加させてもらいました。表彰式に併せて、昼のツアーや夜の懇親会も組まれており、韮崎市の至れり尽くせりのご好意に感謝・感激でした。なぜ秀作賞の栄誉に浴することができたのかよくわかりませんが、五感全体で場の雰囲気を表現できたのがよかったのかもしれません。

湖北晩涼黄菊時 湖北(こほく)(ばん)(りょう) 黄菊(こうぎく)(とき)

古城尚儼格高姿 古城(こじょう)(なお)(げん)たり (かっ)(こう)姿(すがた)

仰観層閣映弦月 (あお)()層閣(そうかく) 弦月(げんげつ)(えい)

玉笛蟲聲風遶池 (ぎょく)(てき) 虫声(ちゅうせい) (かぜ) (いけ)(めぐ)

(註) 弦月=上弦、下弦の月

           平成二十四年十月  光琇 

・第二十八回国民文化祭・やまなし二〇一三 秀作賞作品


意訳 黄菊の時節、琵琶湖の湖北地方は日が沈むと少し涼しく感じる。彦根城は尚いかめしく、気高い姿を呈している。ふと見上げると、天守が半月に照り輝いている。そして、笛と虫の音が調和して風にのって池をめぐり、何とも言えない雰囲気を漂わせている。