◇永平寺卽事
◇中尊寺金色堂
◇高野山奥之院
◇白山平泉寺
◇出雲大社有感
◇伊勢神宮
◇瑠璃光寺五重塔
◇厳島神社
◇鎌倉懐古
◇壇上伽藍
◇平泉中尊寺
◇高野山逍遥
永平寺は、福井県永平寺町にある曹洞宗の大本山です。一二四四年に道元禅師によって開かれ、創建当初は現在地より九キロほど山奥に入ったところにありました。今の永平寺は、四方を山に囲まれた深山幽谷の地に、大小七十余りの建物が並んでいます。寺院の建物は伽藍と呼び、伽藍には僧侶が修行をする清浄な場所いう意味があります。禅宗寺院では、特に主要な伽藍として、法堂(はっとう)、仏殿、僧堂、庫院(くいん)、山門、東司(とうす)、浴室をさして七堂伽藍と呼び、これらは渡り廊下でつながっています。
永平寺の参詣の仕方には参拝と参籠があります。参拝とは山内を見学するだけですが、参籠は僧房に宿泊して雲水(修業僧)と同じ生活をします。夏期は午前三時に起床、冬季は同四時に起床し、朝の勤行(ごんぎょう)に始まって、食事は雲水と同じ簡素なものを食べるようです。
石階遠向七堂連 石階 遠く七堂に向かいて連なり
境内幽深断俗縁 境内は幽深にして 俗縁を断つ
雲水端然佛前在 雲水は端然として 仏前に在り
結跏只管欲修禪 跏を結んで只管 禅を修めんと欲す
(註一) 七堂=僧堂、東司、浴室など七つの主要な伽藍
(註二) 境内=伽藍が立ち並ぶ区域(けいだいは和語)
令和六年六月 光琇
意訳 永平寺の石の階段は遠く七堂伽藍につながっており、そこの境内は静かで奥深く、俗世間から隔絶された世界だ。伽藍の中では、雲水(修業僧)がきちんと礼儀正しく仏前にあって、結跏趺坐してひたすら禅を修めようとしている。
中尊寺は、岩手県南西部の現在の平泉町の中心部、12世紀に奥州藤原氏が栄えた地にあります。その中尊寺の本堂からさらに坂道を登ったところに金色堂があり、堂内は金色が敷き詰められています。中尊寺の開基はは藤原清衡で、平泉の基礎を築きました。金色堂には、2代目の基平と3代目の秀衡とともに3代の遺体(ミイラ)が安置されています。
平泉では、約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、平安京を凌ぐとまで言われました。しかし、栄華は秀衡の時がピークで、次の泰衡は源義経をかくまったという理由で、鎌倉幕府に滅ぼされ、奥州藤原氏の歴史は幕を閉じました。平泉で当時の面影をとどめるのは、中尊寺金色堂、毛越寺庭園と紺紙金銀字経などわずかな遺物です。2011年6月には、これらの遺跡群はユネスコの世界文化遺産に登録されました。
平泉には、以前東京に単身赴任していた時に、東北新幹線から在来線に乗り継いで行きましたが、今回再度、伊丹空港からバスツアーで訪問しました。金色堂は坂を登り切ったところにあり、結構疲れました。
平泉古刹樹陰中 平泉の古刹 樹陰の中
金色燦然環梵宮 金色 燦然として 梵宮を環
る
藤氏榮華如夢去 藤氏の栄華 夢の如く去り
空餘景物寂秋風 空しく余す景物 秋風に寂
たり
(註一) 中尊寺=岩手県平泉町にある天台宗の東北大本山
(註二) 藤氏=奥州藤原氏をさす
令和四年十二月 光琇
意訳 平泉の中尊寺の中で金色堂が樹陰にひっそりとおさまっている。金色は燦然として寺全体を照らしている。しかし、かつて栄華を極め、中尊寺を造営した奥州藤原氏が源氏に滅ぼされて三代で終わってしまったことを考えると、空しく残った中尊寺の景物は秋風の中で何となくもの寂しげである。
開創以来1200年の歴史の中で、高野山は真言密教の聖地として、また弘法大師空海を慕う人々のあこがれの地として、時代や宗派を超えた信仰を集めてきました。皇族や貴族、また有力大名ら時の権力者が、当時の最高の技術をもって制作させた仏像、仏画、工芸品などを寄進し、その結果、わが国でも最大規模にして最高水準の仏教美術の宝庫となっています。
空海は、774年に讃岐国(今の香川県)に生まれ、幼いころから聡明でした。30歳の時に遣唐使として唐に渡る機会を得て、そこで恵果和尚から密教を学んで帰国します。その後に日本で真言密教の教えを説き、開宗したのが真言宗です。816年に、高野山「総本山金剛峯寺」を修禅の道場として開創します。823年には東寺を嵯峨天皇から賜り、高野山と並ぶ真言宗の基盤を確立しています。835年、空海は自らの死期を悟り、弟子たちに遺言を遺して62歳で入定しました。921年には、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られました。
高野山の寺院の数は往時からかなり減少したようですが、それでも現在117あると言われています。その中でも、空海が入定した奥之院は、壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心となっています。一の橋から御廟まで約2キロの参道には、およそ20万基を超える諸大名の墓石や、記念碑、慰霊碑が、樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
千載聖山霖雨収 千載の聖山 霖雨収まり
百餘僧院翠煙浮 百余の僧院 翠煙に浮かぶ
老杉櫛櫛擁靈廟 老杉 櫛々 霊廟を擁し
微聴讀経仙境幽 微かに読経を聴けば 仙境幽なり
(註) 櫛櫛=くしの歯のように、並んで続いているさま
令和四年八月 光琇
意訳 千年の聖山である高野山の長雨が収まり、百余の僧院が靄に浮かんでいる。杉の古木が林立する中に、弘法大師・空海の廟(奥之院)がある。そこから微かに読経が流れており、高野山が開かれた当時の幽玄の世界をそのまま残しているようである。
白山平泉寺は、福井県勝山市の白山の山麓にある古刹で、717年に泰澄によって開かれたと言われています。最盛期の戦国時代には、48社、36堂と6千の坊院が立ち並び、寺領は9万石・9万貫、僧兵は8千人を数えました。しかし、1574年の一向一揆で全山が焼失し、十年後に再建されましたが、境内は1/10になってしまいました。また、明治初期の神仏分離令により寺号を廃止し、白山神社と改めました。
1989年から発掘調査が始まり、境内から数百メートル離れた山林や田畑の下から僧侶の住居跡などが発見され、ここに中世宗教都市があったことが明らかになりました。発掘された物品は白山平泉寺歴史探遊館に展示されています。
細雨濛濛無盡時 細雨濛濛 尽きる時無く
古杉櫛櫛碧苔奇 古杉櫛櫛 碧苔奇なり
榮枯歴史人無識 栄枯の歴史 人の識る無く
幽境居然物外姿 幽境に居然たり 物外の姿
(註一) 櫛櫛=櫛の歯のように並んで続いているさま
(註二) 物外=俗世間の外、世事から離れたところ
令和元年八月 光琇
意訳 細かい雨が濛々と降り続く平泉寺の参道は、古い杉が櫛の歯のように林立し、その間を苔が張り詰めるという独特の景観を形成している。戦国時代に繫栄を極めその後焼失するという、この寺の栄枯盛衰の歴史を知る人は少ない。平泉寺は、そんなことはなかったかのように、山中奥深くで穢れのない姿を呈している。
八雲山麓轉森然 八雲の山麓 転 森然
往古祠堂絶俗縁 往古の祠堂 俗縁を絶す
譲國社神遺恨在 国を譲りし社神 遺恨在り
無言跪坐夕陽前 言無く跪坐す 夕陽の前
(註一) 譲国社神=大国主の大神をさす
(註二) 跪坐=膝まづずいて、ももをまっすぐに
して座る
令和元年六月 光琇
出雲大社は、島根県北東部の出雲市にあり、縁結びの神様として知られています。八雲山を背にした境内には、数千年の歴史をもつ神殿が厳かに達っています。主祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)です。境内には、両手を挙げて跪座する大国主大神の像が置かれています。
古事記では、この大神が天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された壮大な宮殿が出雲大社の始まりと言われています。現在の本殿(国宝)の高さは約24mですが、太古の創建当初には約96mあったようです。当時の技術では、こんな高層建築は不可能と思われますが、2000年に高層建築を裏付けるものが発見されたようです。
意訳 八雲山の山麓は木がこんもり茂って厳かな雰囲気が募っており、古びた社は穢れない姿を呈している。主祭神である大国主大神は国譲りで恨みが多いことと思う。しかし今は、その像は言葉もなく膝まづいて夕陽に照らされて神々しい。
伊勢神宮には、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)があります。内宮は五十鈴川のほとりに鎮まり、天照大神をお祭りしています。わが国で最も尊いお宮で、2000年の時を超えて古代のたたずまいを今日に伝えています。外宮は宮川のほとりに鎮まり、内宮創建から500年後に建てられ、豊受大神をお祭りしています。豊受大神は、衣食住をはじめとするあらゆる産業の守り神です。
平成25年には式年遷宮が執り行われました。この儀式は、20年に一度行われるもので、お宮は隣接する敷地に建て替えられ、神様にもそちらに移られます。その起源は古く、天武天皇のご宿願により、690年に第一回遷宮が内宮で行われ、それが今まで続いています。
杉樹凌霄白水施 杉樹 凌霄 白水施り
如流爽気漲清漣 流れる如き爽気 清漣に漲る
遷宮脈脈清新處 遷宮 脈々 清新なる処
祈願安寧詣客連 安寧を祈願し 詣客連なる
(註) 凌霄=空をしのぐ
平成三一年二月 光琇
意訳 杉の高木が茂っているところに澄んだ清らかな川がめぐっており、さわやかな気配が流れるようにさざ波の上に漲っている。脈々と続く式年遷宮が終わってさわやかな所に、安寧に祈願詣の人々が連なっている。
歳晩長州踏石行 歳晩の長州 石を踏んで行く
瑠璃古刹一天晴 瑠璃の古刹は一天晴る
池邊玉塔映漣好 池辺 玉塔 漣に映じて好し
獨坐閑庭心自清 独り閑庭に坐せば 心自ずから清し
平成三一年一月 光琇
瑠璃光寺は山口県山口市にある曹洞宗の寺院です。境内は香山公園とよばれ、その一角にある五重塔は緑に包まれてすぐ手前の池に美しい姿を投じています。その塔は1442年ごろに建立され、現在国宝に指定されています。また京都の醍醐寺、奈良の法隆寺の五重塔とならび、日本三名塔のひとつに数えられています。
長州といえば、幕末から明治維新にかけての政変の舞台という印象が強かったのですが、優雅な室町文化の舞台でもあったのですね。
意訳 年末に山口県で石畳の所を歩いて瑠璃光寺に至ると、空全体が晴れ渡ってすがすがしい。池の周りでは、美しい塔が水に映って美しい姿を呈している。一人で閑静な庭に座っていると心がおのずから清らかになっていく。
広島市にある宮島は、古い歴史と豊かな自然が広がる、日本三景に数えられる風光明媚な景勝地です。その中心をなすのは、言うまでもなく、嚴島神社と海に浮かぶ大鳥居です。神社の主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三女神です。社殿の創建は593年で、1168年に平清盛公が現在の規模に造営したといわれています。1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。
この神の島を訪れたのは1月です。日本三景の内、天橋立と松島はすでに訪問したことがありますが、宮島だけは何回も広島に行ったことがあるにもかかわらず、今回が初めてでした。四季折々に多彩な祭礼やイベントが催されているようなので、また行ってみたいと思います。
瀬戸澹然波面浮 瀬戸に澹然 一島浮かぶ
神棲奇勝是嚴洲 神棲む奇勝 是厳洲
伝今千古平家業 今に伝う 千古平家の業
華表回廊涵水幽 華表 回廊 水に涵りて幽かなり
(註一) 澹然=静かで安らかなさま
(註二) 華表=大鳥居
平成三十年一月 光琇
意訳 瀬戸内海に静かに島がポツンと浮かんでいる。それは、神様が棲んでおられる景勝地の厳島である。現在に伝わる厳島神社は、千年前の平家による建立である。その神社の大鳥居や回廊は水にひたって幽玄な姿を呈している。
青史鎌台伊豆東 青史の鎌台 伊豆の東
小丘鎮座八幡宮 小丘に鎮座す 八幡宮
將軍成覇勧請處 将軍覇を成し 勧請したる処
亂世榮枯古跡中 乱世の栄枯 古跡の中
(註一) 鎌台=鎌倉をさす
(註二) 勧請=神仏の霊を、離れた他の場所に移し祀
ること
平成三十年一月 光琇
鶴岡八幡宮が、JR鎌倉駅の北方の小高い丘の上にあり、境内は国の史跡に指定されています。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社で、鎌倉武士の守護神を祀っています。京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が奥州を平定したのち、1063年に石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し社殿を創建しました。その後、源頼朝が鎌倉入りして、それを現在のところに移設しました。
東京に7年間単身赴任していましたが、鎌倉を訪れたことがなかったので、一度行ってみたいと思っていました。大阪から、富士山と鎌倉をセットにしたツアーがあったので、それを利用して初めて鎌倉を訪問した次第です。なかなか閑静なところです。
意訳 鎌倉時代の舞台となった鎌倉は伊豆半島の東方にあり、そこの小さな丘の上に鶴岡八幡宮が鎮座している。将軍の源頼朝は、天下を統一して鎌倉に幕府を開き、他から神様を移して鶴岡八幡宮に祀った。乱世の栄枯盛衰がこの古跡の中に埋まっている。
高野山内への入り口は西側に位置する大門です。ここから中に入ると、壇上伽藍、金剛峯寺などのお寺や宿坊、土産店などが点在する街並みとなっています。東に進むと、一の橋から巨大な杉の林となり、その合間に諸大名や有名人の墓所が並んでいます。一番奥には弘法大師の御廟である奥の院があり、静寂の中読経が流れています。奥の院は弘法大師が入定された(生仏になられた)ところです。
壇上伽藍は、弘法大師が高野山を開創されたときに、最初に着手された場所です。少し高くなった台上に、金堂や高野山の象徴となっている朱色の根本大塔(写真)など多くの建物が集まっています。蓮池の周辺では、イチョウなどの落葉樹がすでに色づき始めていました。
千年聖域老杉稠 千年の聖域 老杉稠く
寂寞山中遶寺頭 寂寞たる山中 寺頭を遶る
仏塔穿天檀上儼 仏塔 天を穿ち 壇上に儼たり
大師遺業忘千憂 大師の遺業に 千憂を忘る
(註) 池塘=池の堤
平成二十八年十月 光琇
意訳 千年来の聖域に古い大きな杉の木が林立しており、そのひっそりして静かな山中でお寺巡りをした。高野山の象徴である仏塔(根本大塔)は、天を突きさすように壇上にいかめしく建っている。弘法大師の遺業であるこの建物を見ていると、心に鬱積していた憂いが消えていく。
平泉は、岩手県南西部の現在の平泉町の中心部にあり、12世紀に奥州藤原氏が栄えた地です。初代は藤原清衡で、中尊寺を建立し平泉の基礎を築きました。2代目は基平で、浄土思想の普及に尽力し、浄土庭園などを築きました。3代目は秀衡で、父が手がけていた毛越寺を完成させるとともに無量光院を建立するなどし、奥州に平安京を凌ぐとまで言われた都を拓きました。しかし、栄華は秀衡の時がピークで、次の泰衡は源義経をかくまったという理由で、鎌倉幕府に滅ぼされ、奥州藤原氏100年の歴史は幕を閉じました。
自宅の大阪から平泉までは遠いので、以前東京に単身赴任していた時に、「東京に居るうちに行っておこう」と思って訪問しました。東北新幹線の一ノ関で在来線に乗り継いで、やっとのことで到着しましたが、遠路尋ねた甲斐あって静寂な雰囲気に浸ることができました。それからしばらく経った2011年6月に、中尊寺(写真)などの遺跡群がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
樓臺堂塔耐千年 楼台堂塔 千年に耐え
今放眩輝丘上鮮 今眩輝を放ち 丘上に鮮やか
なり
三代榮華皆作夢 三代の栄華 皆夢と作るも
奥州遺産四方傳 奥州の遺産 四方に伝う
(註) 三代=奥州藤原氏の三代(清衡、基衡、秀
衡)をさす
平成二十五年一月 光琇
意訳 中尊寺の楼台と堂塔は、千年の長きにわたって今にその姿を伝え、小高い丘の上でまばゆいばかりの光を放っている。奥州藤原氏の三代の栄華はすべて夢の如く消えてしまったが、この中尊寺は奥州の遺産として四方に伝わっている。
高野山は和歌山県高野町にある標高1000m前後の山々の総称です。弘法大師空海が修業の場として開いた聖地であり、高野山真言宗総本山金剛峯寺をはじめ、お寺の数は100を超えます。弘法大師は、蓮の華のように取り囲む八葉の峰の中心にあるということで、聖地を今の位置に決められたようです。2015年には、高野山開創1200年の記念大会として様々なイベントがありました。
南海難波駅から高野山へは、橋本駅で乗り継いで終着の極楽橋駅まで1時間40分ぐらい、極楽橋駅からケーブルカーで高野山駅まで行き、そこからさらにりんかんバスでお寺を巡回するということになるので、相当の時間をみておく必要があります。山頂のお寺の多くは宿坊を兼ねているので、一泊するのがいいかもしれません。奥の院の読経を聴いていると、まるで別世界に引き込まれていくようでした。
意訳 霊山には夕もやがただよい、ハスの花びらのような八峰が高野山を取り囲んでいる。不滅の弘法大師の慈悲は今なお尽きることはないので、奥の院で読経が流れるのを首を低頭して静かに聞くことにしよう。
霊山嫋嫋暮煙流 霊山に嫋嫋として 暮煙流れ
八葉蓮華峰影遥 八葉蓮華の 峰影遥かなり
不滅大師慈未盡 不滅の大師 慈しみ未だ尽きず
伏聞奥院読經流 伏して聞かん 奥院に読経流るるを
(註一) 嫋嫋=なよなよとしなやかなさま
(註二) 八葉蓮華=蓮の花びらのような八葉の峰々に囲まれた聖
地(高野山)
(註三) 大師=弘法大師をさす
平成二十四年九月 光琇